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 メキシコの物理学者ミゲル・アルクビエレが1994年に提案した、相対性理論の枠組みの範囲内で可能なワープ航法であるアルクビエレ・ドライブ。そのアイデアは単純だ。物体は決して光速を越えることは出来ないが、空間の膨張収縮の速度は光速を越えても相対性理論に矛盾しない。実際、昔から宇宙論では宇宙創生の直後に宇宙は光速を越えたスピードで膨張インフレーションしたと考えられている。


 アルクビエレ・ドライブは、宇宙船の手前の空間を局所的に光速以上の速度で収縮させ、宇宙船を含む空間を局所的に光速以上の速度で膨張させる。宇宙船は手前の超光速で縮む空間に引っ張られ、後ろからは超光速で膨張する空間に押し出される。これを繰り返すことで、原理的に相対性理論に矛盾することなく超光速で移動が可能になる。しかも、宇宙船そのものは空間の中を全く移動することなしに、である。移動しているのは空間なのだ。


 だが、そのためには負質量物質などという極めて特殊エキゾチックな物が必要で、さらにビッグバンを越えるほどのエネルギーが要求されるため、この理論は非現実的としてしばらく忘れ去られていた。


 しかし2008年に、超弦理論やM理論が予言する余剰次元と真空のエネルギーを併用することで、多くの負質量物質や巨大なエネルギーの存在なしにアルクビエレ・ドライブの実現を可能にする理論が、米ベイラー大学のリチャード・オブシーとジェラルド・クリーバーによって発表された。NASAは21世紀初頭より実験を開始し、国際機関 USS(Universe Survey Station:宇宙探査局)に吸収された22世紀の現在になって、ようやくIXS110を完成させたのだ。


 IXS110 のエネルギー源は核融合ベースのパイオンエンジン。核融合によって作られた電磁プラズマをさらに高密度に圧縮することで、原子核内の陽子や中性子すらもクォーク単位に破壊されたクォーク・グルーオン・プラズマを生成し、クォークの再構成によってπ粒子パイオンと呼ばれる素粒子に変化させる。三種類のパイオンの内、電荷のないもの――π0パイゼロはほぼ100パーセントの確率で二つの光子フォトンに崩壊する。


 ここで重要なのは、単なる核融合では粒子が消滅するわけではなく、結合エネルギーの差分程度のエネルギーしか取り出せないが、π0が崩壊するとその質量全てがエネルギーとなる、という事実だ。よって、反粒子などという扱いが厄介な物が無くても、対消滅と同じレベルのエネルギーを取り出す事が出来る(ある意味π0はそれ自身が反粒子でもあるのだ)。その膨大なエネルギーを使って、アルクビエレ・ドライブを駆動するのである。


 IXS110 の二つのリングはそれぞれ前側が空間の収縮コラプション、後側が空間の膨張インフレーションを起こす。IXS110は超光速で膨らむ空間の泡の上に乗っている、ただそれだけなのだ。だから目的地に着いても減速の必要も無い。宇宙船自体の速度は全くゼロなのだから。それでも、このメインエンジンで出せる最大速度は光速の100倍程度にまで達する。だから「元」ベテルギウスまでは6年くらいかかる計算になる。その間、僕は人工冬眠ハイバネーションすることになっている。


 そして、無事目的地に到着したら僕は冬眠から目覚め、ブラックホールを様々なセンサーで観測してデータを集め地球に向けて送信し、最後はブラックホール目がけて突入する。ほとんど自殺に近いが、これは決して自殺ではない。ブラックホールの向こうはどこかの時空、またはどこかの宇宙に通じている、と言われている。僕はそこに到達する、名誉ある最初の人間になるのだ。そのためには全てを捨てても構わない。こうして僕は妻に別れを告げ、IXS110と共にブラックホールへの還らぬ旅に出発したのだった。


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