帰宅

 ある夜。

私は深夜にトイレに行きたくなって目が覚めた。

 いつもは夜中に起きることなど無いのだが、寝る前にお酒を飲んだのが悪かったのだろう。

 この日は、お盆の連休で実家に帰ってきていた。

寝る前に兄が仕事から帰宅し、一杯だけ付き合えと半ば強引に飲まされたのだ。

 時間は深夜三時過ぎ。

両親も兄も寝静まり、家の中はとても静かだった。

 トイレは1階のリビングの向かいにあり、二階の私の部屋からは少し遠い。

めんどくさいとは思いつつも、仕方なく階段を降りていく。

 階段を降り、左側にあるトイレのドアに手をかけようとした時、反対側のリビングから物音が聞こえた。

 その音は、小刻みに一定の感覚で鳴っている。

何かを擦るような・・・・・・足音?

少し動いては止まり、また少し動いては止まるを繰り返している。

 一瞬誰かいるのかと思ったが、そんなはずはない。

リビングは真っ暗で、ドアも締まっている。

この状態で、部屋で何かをできるわけがない。

……泥棒?

 背筋に嫌な汗が流れる。

この物音が泥棒のものなら、この状況は危ないのではないか。

もし鉢合わせでもしたら……。

 私は、トイレに入ることを諦め、静かに自室に戻ることにした。

リビングに背を向け、階段を上がろうとした時、後ろでドアが開く音がした。

 これは最悪な事態が起きたのではないだろうか。

きっと今、私の後ろには泥棒がいる。

逃げたいが、恐怖で足が動かない。

人間、本当に怖い時は声が出せないものだ。

私は静に事の行く末を待つしかなかった。

 しかし、ドアが開いた音から、先の展開がない。

逃げる物音も、こちらに来る気配もない。

恐る恐る後ろを振り返る。

そこには、微かに開いているリビングのドアがあるだけで、人の気配はない。

 物音を立てないようにリビングのドアに近づき、こっそりと中を覗いてみる。

リビングは暗闇に包まれていて、何も見ることはできない。

そっと室内に入り、電気をつける。

何もない。

リビングの中を見て回るが、変わったことは一つもない。

窓が割られた様子も、何かを物色された様子もない。

キッチンの奥にある勝手口にも、しっかりと鍵が閉められている。

 では、あの音は何だったんだろうか。

確かに聞こえた足音。

空耳というには、確実に聞こえすぎていた。

 いや、もう考えるのはやめよう。

何事もなかったのだから、良かったのだ。

 私は自分にそう言い聞かせ、トイレを済ませ、二階に上がった。

 二階の一番奥が私の部屋になっている。

その手前に、兄の部屋、階段の脇が両親の寝室になっている。

 両親の部屋からは、父親のいびきが聞こえてくる。

こんな大音量のいびきの中、母はよく寝られるものだ。

 以前は、私と兄の部屋の位置が逆だった。

しかし、夜ごと私の部屋まで聞こえてくる父のいびきに耐えられず、兄に相談して変えてもらったのだ。

 その際、母にも嫌じゃないのか尋ねたことがあった。

母は無表情で、「慣れた」とだけ言った。

さすがに20年以上一緒に寝ていると、慣れるのだろうか。

私にはわからない感覚だ。

 そんなことを思いながら、自室に向かっていると、白いもやのようなものが、兄の部屋に入っていくのが見えた。

見間違いではない。

今、確実に白いもやが、ドアをすり抜け、兄の部屋に入っていった。

 不思議と恐怖は感じず、むしろ白いもやが何なのかが気になった。

兄の部屋のドアをこっそり開ける。

 そこには、兄が寝ているベットの足元に立つ二つの影が見えた。

白いもやのようだが、確かに二つの影を形作っている。

兄はまったく動じず、寝息を立てている。

 もう少し近くで見ようかと、中に入ろうと一瞬目を離した隙に、影は煙のように消えてなくなっていた。

 がっかりしたような、安心したような、何だか複雑な気持ちだが、私は自室に戻り、寝ることにした。



 翌朝。

遅く起きてリビングに行くと、兄と母がコーヒーを飲みながら談笑していた。

父はもう仕事に出かけたらしい。

お盆だというのに仕事とは……父の仕事好きもここまでくると呆れてくる。

 私がリビングのソファに座ると、母がコーヒーを入れてくれた。

なにやら二人は、昨日見た兄の夢の話をしていたようだ。

 私が小さいころに亡くなった、母方の祖父母が夢に出てきたそうだ。

特に何かしたわけではないが、久しぶりに顔を見て、懐かしんでいるようだった。

 その話で、私は昨夜の出来事を思い出した。

母に、リビングで擦るような足音がしたが、何だったのだろうかと尋ねると、少し懐かしむような顔をして母は言った。

「きっとおばあちゃんが様子を見に来たんじゃない?」

 それは、父方の祖母のことで、私が生まれる前に病気で亡くなったらしい。

祖母は足が悪かったため、足を擦るようにして歩いていたようだ。

 もしかして、私があの時、階段に立っていたから二階に行けなかったのだろうか。

ふとそんなことを思った。

あの時、もし誰もいなかったら、部屋まで父のことを見に行っていたのではないだろうか。

親子の対面を邪魔してしまったような気がして、私はなんだか申し訳なくなった。

 兄の部屋の白いもやの話もしようか思ったが、祖父母の夢を見て上機嫌な兄には少し言いづらかったので、黙っていることにした。



 毎年、なんとなく過ごしているお盆だが、見えないだけで、いつも祖父母が私たちに会いに来てくれているんだなと思えた出来事だった。

実際のところはどうかわからないが、それで故人を懐かしみ、思いを馳せることができるのなら、それでいいのではないかと私は思う。

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