九之三十三(第九章完)
翌々日になっても、町の火はくすぶっていて、炭になった家々のあちこちで埋火がはぜ、堺は町全体が鼻を突くきなくささに包まれていた。焼け出された人々は、呆然と立ちつくしていたり、涙を流していたり、興奮しているのか心に変調きたしたのか大声でわめいていたりする。
その港へ、中天からそそぐぎらぎらとした陽射しのもとで小舟から降りた男がいた。男は百姓のような格好で、一見しただけでは青年にも見え、ちょっとしたしぐさが中年くさくもあり、なんとも云いようのない、不思議な容貌をしていた。彼はしばらく町なかを歩き、ひとりの虚無僧を目ざとく見つけると、迷いのないあしどりで近づいていった。
虚無僧は、燃えつくし、崩れた家に向かって手をあわせている。焼けた遺骸を供養でもしているのかもしれなかった。
「すべて、終わりました」
男は虚無僧の背中から、若い男のような、女が男をまねているような奇妙な声で話しかけた。
「うむ、長きにわたる潜入、苦労であった」
虚無僧姿の、伊達家隠密機関たる
「いえ、私は別段なにをしたわけでもございません。最後などは、ナヅキカドをどうにかしとめたのみにて、大半は、伊賀忍の娘たちがかたをつけてくれました」
芭蕉はちょっと笑って、袂からとりだした袱紗包みを取り出して男に渡した。
男は、数年は働かずとも楽に暮らせるほどの、金の重みをもった包みを、おしいただくようにして両手で受け取った。
「殿からの褒美じゃ。安心せい、一枚たりともくすねてはおらん」
ふたりは同時にくすりと笑った。そうして芭蕉は云った。
「しばらく仙台にもどって、ゆるりと暮らせ」
「はい、家のものも喜びましょう」
「もう、この先、我らにたいした任務はくだるまい。だが廃業して晴耕雨読というわけにはいかぬ。これからは、藩のなかで同朋を監視する嫌な時代になるだろう。大坂での
はい、とうなずいた男は、話題を変えた。
「ひとつお願いがございます」
「うむ」
「身よりのない小僧をひとり、引き取りたいのですが」
「引き取ってどうする」
「娘も気に入っております。相応の歳になりましたら、めあわせたいと考えています。もちろん、役に立つ間諜に仕上げてみせます」
「かまわん、好きにせい」
男は、頭をさげて、謝意をしめした。
「家族は大丈夫か。いささか、おかしな宗教にのめりこみすぎたのではないか」
「娘はまだ幼少ですので気持ちのきりかえもはやいでしょうが、妻がどうも」
「むずかしいか」
「任務とはいえ、深入りしすぎたようで。心からすべての信心を抜くのには、月日がかかるでしょう」
「信仰とは、まことやっかいなものよ」
芭蕉は首を振り振り云った。
「まったくです」
「では、わしはもうしばらく、大坂を探索する。吉造、次は仙台で会おう」
「はい、頭領。ごぶじのお帰りをお待ちしております」
芭蕉はまた経を唱えはじめ、吉造は妻のお妙と娘のお七と、一緒に連れてきた弥之助の待つ港へと帰って行った。
途中、瓦礫をかたづける家族か店の仲間か、数人が忙しそうに立ち働いているのが眼に入った。そして、そのなかに、見覚えのある伊賀の娘をみつけた。
――よう働く娘だ。
吉造は、碧の姿を眼のすみでみながら、そんなふうに思った。碧は壺かなにかを掘り出し、横にいた女中のような女にわたして、額の汗を手でぬぐっている。
神惶教の里で、寄り合い仲間に手を回して自分の家に寄宿させ、監視しつつしばらくいっしょにすごしたが、敵にしておくにはもったいないと思える娘であった。
――しかし、見つかると面倒だ。
戦に巻き込まれるのもごめんだ。舟で尼崎をまわって京へむかおう。
そうつぶやいた男の声音はすでに低く大人の音程で、容貌もいつもの中年男性のものに変わっていた。
彼の視界にはいった、色彩を失った町の背景に広がる海が、痛々しいほどに青く輝いていた。
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