九之十五
朝まだき……。
乳のような濃い霧が集落にたちこめていた。
陽が顔を出す直前のいちばん暗い時分に濃霧が重なって、一寸先すら判別できぬほどの冥闇のなか、ひとりふたり、家のなかから人が姿をあらわしはじめた。
まだ眼のさめきらぬように、いや、まだ夢のなかをさまよっているようなようすで、真っ暗ななかをぽつりぽつりと人影があるいていく。
彼らはみな、ぶつぶつとなにかをつぶやいているが、たとえその口に耳を寄せてもその語句は理解できぬであろう。まるでうめき声のようなつぶやきだった。
「吉造さん、お妙さん」碧は身体を起こして、小さく呼びかけた。「お七ちゃん、どうしたの」
だが三人はまるで聞こえていないようすで、戸をあけて出ていった。
みんなどこへいくのだろう、自分はなぜなんともないのだろう。
つかのま思案し、思案しつつも、碧もそっと彼らの後を追って出た。
入り口に立った彼女の眼の前を、幾人もの集落の人々が通り過ぎていく。
驚きとも不審とも、自分でも整理できない気分のまま、碧は眼を凝らして彼らを眺めた。
東の山の
そしてふと気がついたのだが、どこかから例の太鼓と笛の音が聴こえてくるようだ。それは遠く小さく、じっと耳をすまさなくてはききとれないほどで、どこから流れてくるのかさえさだかではなかった。
里人は集落から西へと向かっていき、山間の道へと向かう。
みな夢遊病者のようであるのに、いつか一団となって整然として列をなしてゆく。
人々がいちように発するうめきは、やがて声音が高まっていき、そして声をあわせて呪文のような言葉を合唱しはじめた。
「オノゴロォ、オーノーゴーロォー」
その合唱は異様な音の波となって、樹林の木々を震撼させる。低くよどむような声音が暁闇の大地に這うように伝わっていく。
「オノゴロォ、オーノーゴーロォー」
碧は黙って彼らに混じって歩いた。
ちょっと前を歩くお七も、同じように呪文を唱えている。
「オノゴロォ、オーノーゴーロォー」
いつもの童女なりの甲高い声でなく、小さな身体から発せられるのは亡霊の呪怨のようであった。抑揚なく、感情なく。
おそらく、里人すべてが集落から出てきて行進をしているだろう。ひたひたと足音が重なり、うめくような詠唱が波動となり、人々を包み、まるで黄泉へとむかう亡者の群れのように行進している。
――しまった。
碧は内心くやんだ。
あっけにとられてしまって、流されるように彼らについてきてしまったが、吉造家族三人だけでも、たとえ手荒な手段をつかってでも柱にくくりつけてでも、どうにか家にとどめるべきであったかもしれない。だが、機は完全に逸してしまった。
――こうなったら、みんながどこまでいくのか確かめるまで、ついていくしかなさそうだ。
覚悟を決めて、里人たちについていき、機会を見はからって吉造たちを助けよう。いや、できうるなら里人全員を解放する手段を見つけよう。
空は明るさをとりもどし、霧がいつか流れ去ったころ、ようやく一行は妙見山の森を抜け出た。
そこは低い山なみにいだかれているといった土地で、比較的ひらけていて、田畑が森や岡の間にあって、張られた水にはまだ若い稲が顔をのぞかせていた。
千数百人の信者の行列の先頭は、田園の中心あたりで南に進路をかえた。
碧は行列の中ほどにいたのだが、そこより低い位置にあった先頭の様子が眼に入った。
先頭の、マホシヒコたち幹部連の上空三間(約六メートル)くらいの上空には、あの三毛模様をした狛犬のような妖獣
そして、白馬に乗ったマホシヒコのかかげる三つ
やはり、この無心に歩く信者達は、マホシヒコ達が妖術か催眠術の類を使って操っているとみて間違いはなさそうだ。
そう考えてみると、ふと当初の疑問が碧の胸にわきあがった。
――なぜ自分はあやつられていないのだろう。
幹部は別としても、一般の信者たちのなかに、碧のように術にかからなかった者が他にいるのだろうか。
碧はなにげないふうをよそおって、左右に首をまわして、正気そうな人をさがしたが、視野のなかにはそれらしい者はみあたらなかった。
すると、
「おねえちゃん、おねえちゃん」
後ろからぎりぎりいっぱいまでひそめた声をかけてきた者がいた。
「
碧もつぶやくような声音で返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます