九之十三

 その、前々日のこと。

「しまった。これはしまったぞ」

 旅籠の二階の、窓のふちに尻をおろして気だるそうに手すりに肘をついて、閑散とした洲本の町並みをながめながら、あくびまじりに嵐はそうつぶやいた。

 碧と別れてから、やることがとたんになくなってしまった。情報収集も集めつくしたという感がある。これ以上の聞き込みを続けても、もう網にひっかかるような大きな魚は捕れそうもなかった。

 だからといって、ここを離れるわけにもいかない事情がある。

 碧は、連絡を取り合うと潜入が発覚するおそれがあるから単独で行動したい、と云っていたが、実際問題そうもいかない。

 碧と嵐が淡路島に渡ることは、すでに藤林衆に伝えてある。ので、こちらがどう思おうが向こうから連絡をとりにくるはずであった。いつそのつなぎがあらわれるかわからないので、碧が真聖神惶教しんせいしんこうきょうの集落に潜入したことを、連絡役に報告しなくてはいけない立場の嵐は、この場所をうかつに動くわけにはいかないのだった。目印の手ぬぐいを窓の手すりにかけてあるので、短時間、町をそぞろ歩くくらいなら問題はないのだが、嵐にとってはその程度の運動では運動した気がしない。とにかく暴れたくってしょうがないのである。

 そんな欲求不満が胸のなかにたまりにたまり、もうストレスで頭がどうかなってしまいそうな気分に到達したころ、ふいに嵐をあわてさせる凶事――いや、彼女にとっては狂喜するほどの吉事であったろう――がふいに向こうから、のそのそ歩いてやってきた。

 彼女は階下へと走り降りて、表の通りに出るとその影をさがした。もうずいぶんさきを歩いている。相手はゆったりと歩いているように見えて、じっさいはずいぶん早いあしどりであった。その人物の後を追った。

 都合よく、その人物、墨染の直綴じきとつを着て網代笠あじろがさをかぶった雲水は、ひとけのない空き地の前を西へとむかっていく。

 嵐はもう、無心になって、走って近づき、その岩壁のような背にむけてなんの躊躇もなく殴りかかった。まるで弾丸がはなたれたような鋭い突きであった。

 雲水はすでに、たからかな足音が耳たぶにふれていたから、振り返りもしないで、無造作にひょいとその攻撃をかわして、そのまま道から空き地へと身を移した。

 それでもいささかの動揺は隠しきれないようで、

「おいおい、ずいぶんやぶからぼうじゃあないか、嵐よ」

 驚いたように云った鬼巌坊きがんぼうはさらに、すべるように後ろにしさって、

「後ろから襲ってくるとは、お前らしくもない」

 待ったをするように手をあげて、嵐を押しとどめた。それでも腰をおとして戦闘にそなえているのはさすがの少林拳の達者であった。

「うるせえ、こないだのおかえしだ」

「おかえしもなにも、あれは、お前の力不足、修行不足で敗れただけのことだろう。わしにあたるな。おのれの無力をなげけ」

「身体じゅうの骨にひびが入ったり折れたり、ひと月も満足に動けなかったんだぞ。しかえしせずにいられようか、え、クソ坊主?」

「なんとまあ、お前にはいつも驚かされるな、嵐よ」そう云って、愉快そうに石のような顔をゆがめた。「常人なら、全身の骨が砕けて臓物が破裂して、またたくまに死しておっただろうに。それがたったひと月で恢復するとは」

「あたしはそのへんのサンピンとは鍛えかたが違うんだ。みくびるんじゃあない」

「これは失敬。しかし待て待て。今日はだめだ。お前にかまっている暇はないんだ」

「あれからわたしは山にこもって修行を続けた。こないだみたいに簡単にはいかないぞ」

「話を聞け、ばかもの」

「最近やることがなくってイライラしていたんだ。とっとと勝負しろ」

「待てともうすに」と鬼巌坊は、ふと何か思いついたようすだ。構えを解くと考え深そうに顎をなでながら、「いや待て、本当に待て、ひょっといいこと思いついた」

 まるで闘う意思をみせない相手に、嵐は拍子がぬけたような気分になった。それでもいぶかしむ顔つきで、相手の話を待った。

「お前、わしの仕事を手伝え」鬼巌坊は自分のひらめきに大満足の態で云った。「共同戦線をはるとしようじゃないか」

「ふざけてんのか」

「ふざけてなどおらん」鬼巌坊はにやりと笑った。「アマソラノマホシヒコというのは聞いたことがあるか」

「あるもなにも、わたしらが追っている邪教の親玉だろう」

「それよ。そのマホシヒコよ」

「どういうことだ、もったいぶらずに早く話せ」

「そうせかさんでも、ちゃんと説明してやる。いいか。そのマホシヒコをわしはとめたい。やつは危険な男だ。なにかとんでもない悪だくみを抱いている。恭之介は様子をみろというが、わしは放っておくと後のわざわいになると確信している。ゆえに、わるもの成敗のため、わしは大坂城を抜け出してはるばる海を渡ってきたというわけだ。どうだ、互いの目的は同じだ。手を組まんか」

 嵐は、鬼巌坊をにらんだまま、考えた。ふだん頭を使わない彼女が、脳から汗がしみ出るほど知恵をしぼった。そうして五回ばかり息をはいたころ、緊張していた全身の力をゆるめた。

「いいだろう。今回だけだぞ」

 こうして、のちに碧を心底からあきれさせるコンビが、まがいなりにも、ではあったが誕生したのだった。

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