九之十二

「大御所は今日明日にでも二条城へ入るであろう」

 夜の木立のなかで、闇に沈殿するような声で黒衣の男が云った。頭が奇妙に大きくみえるのは、深網笠をかぶっているからだろう。虚無僧姿のその男は、伊達政宗のもとで黒脛巾くろはばき衆と呼ばれる隠密集団を統率する、あの芭蕉という男であった。

「大坂方は戦々恐々のていでしょうね」

 そう答えたのは、奇妙な声音の人物であった。背の高い子供にも、背の低い大人にも見える体格で、声は女が男の声をまねているような、子供が大人ぶった声をだしているような、なんとも判断つきにくい音程であった。

「こちらの様子はどうだ」

 と問う芭蕉に、

「数日後に、マホシヒコめらはなんらかのくわだてを実行にうつすようです」

 と男とも女とも、大人とも子供ともつかない異様な人物は答えた。

「数日後……、というのが月末か朔日でもなければ、えらく中途半端な日どりになるな」

「なんでもその日、東の空に異変が起きるようです。吉瑞があらわれるだろう、と云っておりました」

「吉瑞……。どんな吉瑞があらわれるというのだろうな。おそらく気のふれた教祖のたわごとであろうが」

「さて」

「それで、きゃつらはなにを挙行しようというのだ。まさか、本当に神を呼び出すつもりじゃなかろうな」

「意外と、当人らは本気で降臨計画を練っておるようです」

 ふふん、と芭蕉は鼻で笑った。完全にマホシヒコたちを嘲弄している笑いかたであった。そして続けて訊いた。

「それで、例の娘のようすはどうだ」

「はい、ちょうど先夜、神殿に忍び込みましたが、大野修理の手先に妨害されて得る物なく退散しました。微力ながら逃亡の手助けをしてやりましたが」

「やはり、どこぞの忍かの」

「言葉のなまりはうまく隠しておりますが、私は伊賀者ではないかとふんでおります」

「服部の手の者か」

「あるいは藤堂の無足人かと」

「ふうむ。いずれにせよ、黙視はできぬな。いや泳がせて様子をみたほうがよさそうだの」

「はい、なにか騒動を起こしてくれれば、こちらも動きやすくなります」

「修理の手先の女はどうだ」

「やる気がないのか、なにか思惑があるのか、これといって何をするでもなく」

「そちらのほうも眼をはなすでないぞ」

「かしこまりました」

「まあしかし、そのふたりに気をとられすぎることもない。こちらとしては、我らとのつながりを知るマホシヒコと教団幹部たちを始末できればそれでよいからの」

「かならずや、しとめてみせます」

「期待している」

 声とともに芭蕉の姿は風に流されるように去っていった。謎の人物も、闇にとけて消えていった。


 芭蕉と謎の人物が短い報告を終えた同じころ、ちょうど里を挟んで反対側で、こちらもふたつの影がひそひそと話をしていた。

「それにしても市蔵殿。あなたに来ていただけたとは心強いことです」

 碧はしんじつ安堵していた。紀州でもそうだったが、孤立無援の状態で活動するのは、精神的につらいものがある。連絡はとらないつもりだったが、やはり知り合いが近くにいてくれると思うだけで、ずいぶん気が楽になるものだった。

「もう、わしのようなじじいには出番もありませんでな。かたてま仕事の手伝いくらいしかやらせてもらえんのです」

「そういわれると、私としては、いささか気落ちしてしまいますが」

「これは失敬。してお嬢、あんばいはいかがですな」

 碧は昨夜の顛末をかいつまんで語った。

「鶫が?それで?闘った?そうですか」

 市蔵は相槌をうちながら、驚いたり、いぶかしむような表情を浮かべたり、最後にはちょっと奇妙な感じで顔を曇らせた。娘のようにかわいがっていた忍者が裏切ったことが、いまだに老人の心を痛切に苦しめているようだ。しかし、まあいいでしょう、と市蔵は気持ちを切りかえたようだった。

 そうして碧は今後の方針などを伝達し、

「ではそのように嵐に伝えておいてください」

「あ、その嵐のことですじゃ」

「なんです」

「あやつ、花神のところの坊主と行動をともにしておりますぞ」

「なんですって」碧はしんそこ面食らった顔をした。「まったく、なにを考えているんでしょう」

「なにも考えていないおそれもありますな」

「頭がいたくなってくるわ」そう云って碧は本当に頭に手を当てて首をふった。「ともかく、無茶なまねだけはしないように、厳しく、念をおしておいてください」

「それはすでに口がすっぱくなるほど」

「気苦労をおかけして申し訳ないことです」

「ではお嬢、お気を付けて」

「市蔵どのも、くれぐれも無理はなさらないでください」

「老体を気にかけていただけて、じじいは泣けてきますわ」

「そんなおおげさな」

 市蔵はにっと笑い、しわくちゃな顔のそのしわをさらに深くして去っていった。

 ――まったく、嵐ときたら。

 碧はふたたび頭に手を当てて、頭痛を振り払うように首を振った。

 嵐はほうっておくと、無茶ばかりする。私がついていないと何をしでかすかわかったものではない。一度こんこんと説教をしてやらなくてはいけない。

 そんなふうに思うのだった。

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