八之六

 頭の上で吊るされている両手がしびれて、もはや感覚がなくなってきた。

 ――さてどうしたものか……。

 碧は、苦痛のなかで意識がだんだん混濁してきているし、しだいに冷静な判断力も失ってきていて、ともすると、男たちの慰みものになってもいいから開放されたいという考えさえ、ふと頭をよぎりもする。恥辱にしばらく堪えていれば、いつか逃走する機会もおとずれるのではないか――。

 しかし、大きく首を振って、まるで深い泥沼に落ち込んでいくような思考を振り払った。

 と、入り口の戸がそっと開けられた。

 そっとではあったが、いくら慎重に慎重を重ねたところで建てつけが悪いので、どうしてもぎしぎしと音がする。

 瞬間、息を吹きかえしたように、碧ははっと我にかえった。

 音がするまで、まったく人の近づく気配すら気がつかなかった。

「碧どの」

 戸口に姿をあらわした小さな影が、ひそひそ声で云う。

「だいじょうぶかえ、碧どの」

「あぐりさま?」

 あぐりは碧のもとに近寄りつつ、

「すぐに助けるでのう」

 取り戻した短刀を引き抜いて、碧の胴体を縛る縄を切りはじめた。

「やっぱり九度山に帰ることにした。大坂城に行っても父上に怒られそうじゃでのう」

「賢明なご判断です」

「屋敷に帰って、そのまま父上の帰りを待つことにしようと思う」

 父上の帰りを待つ、という言葉が、碧の胸に刺さるような響きを持っていた。

 あぐりは必死に縄に刃をあてて押したり引いたりしている。が、縄自体が太く、か弱い少女の腕力では、簡単には切り落とせない。

「姫さま、まずは手の紐をお願いします」

 云われてあぐりは、はたと気がついて、短刀を碧の頭上にもっていく。こちらは、細い麻紐であったので、難なく切断することができた。

 自由になった手で短刀を受け取り、碧は身体に巻きつく縄を切り始めた。

 切りながらも、

「このような無謀なまねをなさって、少しは危険というものをご考慮ください」

「助けられた礼よりも説教かえ」

「助けていただいたことは感謝いたしますが、こうして縛られているのは、そもそもどなた様のせいであるか、ご自分の胸に手をあててようくお考えください」

「ああもう、こうるさいおなごじゃのう」

「それと、その殃狗おうく

「お、雷音らいおん。いつのまに」

 姫の背後に三毛の仔犬――のような魔物が寄り添っている。彼は農家の軒下に潜んでいて、あぐりの姿をみかけて追いかけてきたものであった。

「エゲレス語で獅子のことをライオンというのだそうな。で、雷の音の字をあてたものじゃ。洒落ておるじゃろう」

「名前のゆらいなどどうでもよろしい。いくら愛着があるのを訴えても容赦いたしません。命は奪いませんが、いますぐにお放しください」

「ち、血も涙もないおなごじゃのう」

「だいたい、獅子と犬は別の種類の生き物です。どちらかと云えば、獅子は猫に近いと思います」

「いや、獅子は犬じゃろう」

「猫です」

「じゃあなんで神社の狛犬と獅子はそっくりなのじゃ」

 無意味な獅子問答を続けているうちに、ぷつりと縄が切れた。

 碧はすぐに立ち上がろうとしたが、血がからだの下部にたまってでもいたのか、くらりと立ちくらみがしてよろめいて、いままで自分が縛られていた柱につかまって身体をささえた。

「だいじょうぶかや」心配するあぐりに、

「ご懸念にはおよびません」

 そっけなく碧は言葉を返した。

 まるで綿のうえに立ってでもいるように、周囲の景色がぐらぐらと揺れた。数回大きく呼吸を繰り返して、眼をしばたたかせて、意識と視野を回復させる。

「では、脱出いたします。あぐり様、ぜったいに喋らないでください」

「うん、わかった」

「喋らないで」

「う、もうはじまっておったのか」

 碧は腰を落とし足音をまったくたてずに戸口に向かい、外の様子をうかがう。

 下弦の月がもうずいぶん高くまで昇っていて、静寂の夜をうすく照らしていた。右手の庭の奥に母屋があって、左手のすぐそこに門があった。

 手招きしてあぐりについてくるように指示して、碧は外にでた。

 屋敷にいる者達は、すっかり眠り込んでいる気配であった。だが用心してそろりそろりと脚を運ぶ。

 と、あぐりの後ろにいた雷音があぐりのすそを噛んだ。あぐりはつんのめって碧の帯をつかんだ。碧は前のめりに泳いで、あやうく倒れかけたところへ……。

 爆音がとどろき渡った。

 夜の深閑とした空気を引き裂くその爆音とともに、碧の頭の直上をなにかが飛び抜けていった。

 碧は倒れかけた勢いを殺さずに、そのまま体勢ひくく、地を這うようにして、門まで駆け抜けた。あぐりと雷音も後ろに続く。三人が垣根の陰へと身を沈めたところへ、さらに轟音がして、鉄砲の弾丸が地面を跳ねる音がした。

「甘いんだよ、伊賀の小娘っ!」

 杉谷善珠が屋敷の軒下に立って、銃口をこちらに向けている。

 彼女の眼帯をはずした左眼がうっすらと光を放っている。暗闇をものともしない超視力の金色に輝く瞳が、標的に狙いをさだめていた。

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