八之五

 夜更けて。

 あぐりは今晩、何度目かの寝返りをうった。目がさえてまるで眠気がおとずれてこない。

 ここは農家と思っていたが、この辺りの地侍の屋敷で、板敷きではあったが八畳の、それなりに掃除の行きとどいた部屋に敷かれた夜具のうえで眼を見開いて、少女はじっと暗闇をみつめていた。

 ――さて、どうしたもんかのう。

 あぐりは悩んだ。

 杉谷善珠の父真田幸村に合わせてくれるという誘いは、父とはなればなれで暮らす十三歳の少女にとっては、じつに甘美な誘惑であった。誘惑に負けて、父に会いたいとあの時は云ってしまったが、よくよく考えてみれば、呼ばれもしないのに、のこのこと大坂城にゆけば、父に大目玉をくらうのは必定であった。それを見てにんまりとほくそ笑む猿飛佐助の顔すら想像できる。やはり、ここはおとなしく、九度山の屋敷に戻るのが最善に思えてくる。

 ――しかし……。

 廊下にはこの家の娘らしい女が見張りについていて、厠へ行くにもいちいちついてくる。

 ――どうしたもんかのう。

 ふと、なにか人の話し声が聞こえてくるのに気がついた。

 それは、何人かの男女が密談しているような気配であった。

 好奇心に突き動かされて、あぐりは夜具を這い出ると、そっと壁ににじりよって耳をすませた。どうやら、ひと間おいた、居間で会談している。

 声はとぎれとぎれで、時に大きくなったり小さくなったりして、しっかりと集中していないと、内容はまるで聞きとれない。

 それでもなんとか判別できた単語は、名前では、大野修理、北村、湊、地名では、有田や那賀、あとは、ことが成功した暁には紀州一国、とか、土豪たちに一万石とか、そんな報酬のやりとりであった。そうして、この家の主に、近隣の百姓たちをうまく扇動しろというような通達をしているのがわかった。

 一揆の噂はもうずいぶん広まっている。でなければ、あぐりがそれを耳にすることもなかったであろう。そんな噂さえ耳にしなければ、

 ――一揆の見物など思いもつかなかったのに。

 あぐりの背筋にぞっと悪寒が走った。

 これは、大坂城まで行かずとも、この一事だけで父からお灸をすえられそうだ。

 あぐりは小さな胸のなかで決心をした。

 ――よし、逃げよう。

 逃げて、九度山に帰ろう。

 それには、まず、ここを抜け出し、碧を開放し、彼女の助けをかりなくてはどうしようもない。

 これはもう、この家にいる大人たちと自分の一大勝負だ、と思った。

 みなが寝静まるまで、けっして眠ってはならない。眠れば負けだ。

 やがて半刻ほどもたち居間での会談は終了して、人々はそれぞれの寝室へと向かったようだ。あぐりも夜具へもぐりこむ。

 ひとつ足音が近づいて、――おそらく杉谷善珠であったろう――そっと戸を開けてあぐりの様子をうかがって、去っていった。あぐりは、夜具にくるまって寝たふりをしてやりすごした。

 さらに半刻ほども経っただろうか、戸板の向こうから、ささやかな寝息が聞こえてきた。見張りの女が眠ってしまったようだ。

 あぐりは、耳を澄ました。屋敷内の、衣擦れの音さえも聞き逃すまいと、意識を集中させ、耳をとがらせた。

 ――うむ、みな眠ったようじゃ。

 とあぐりはみた。

 暗闇に、すっかり眼はなれている。

 そっと起き上がり、ひたひたと敷居際までゆき、これまで生きてきたなかで一番と云っていいほどの緊張感のなか、音をたてないように戸を開けると、そこには横座りに座って眠りこけている女がいた。その前を、ぬきあしさしあしで通り過ぎる。

 用意されたねまきのままであった。着物に着替えていては、その物音だけで気づかれそうな気がした。

 居間の前までくると、わずかに明滅している囲炉裏の残り火の、その脇に眠っている人の姿が見えたが、それはおそらくこの家の主であろう。

 と、その居間の片隅に、碧の短刀が置いてあるのが眼にはいった。

 見つけてしまったいじょう、取り戻さねばならない。不必要に思える責任感であるが、この状況におちいったのはあぐり自身の過失に他ならない。短刀を取り戻すのはあぐりの責任に違いない。

 あぐりは部屋に脚をふみいれた。

 気配を殺し、足音を殺し、息を殺し、しかし反対に鼓動は高鳴り、深夜のしじまにとどろき渡りそうなほど、どきどきと動悸が力強く胸を叩く。

 生唾を飲みこめば、いびきをかいている住人のそのいびき声よりも大きいのではないかというほど喉が鳴る。

 そうして短刀を手に入れたあぐりは、それでも気をゆるめずに居間を出た。

 のち、さらなる緊張と隠忍の刻を堪えに堪え、少女は土間の裏口からどうにか屋敷を脱することができたのだった。

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