其之二
「失せよ……、失せねば徳川に加担するいかなる者、大名から足軽に至るまで、必ずや誅滅せん。死屍が累累と大地に横たわり、山河を埋めつくすであろう。惨苦と悔恨の中で悶え苦しませてくれる」
赤くふっくらとした口の端からは、滂沱として涎が垂れ続け、それでもかすみは喋り続けた。
いや、喋っているのはかすみではない別の誰かだ。誰かがかすみを通して語りかけているようだ。
「残酷にして無慈悲なる徳川よ。亡き太閤の恩を忘れた不忠者よ。我欲に溺れ、民を虐げ、天下を掌裡に握らんとする大悪党め。必ずや天罰がくだらん。滅びよ。滅びよ」
声がやむと、途端に周囲を静寂が包んだ。
かすみは、大きく身体を震わせ、耳をつんざくような叫声を放ったかと思うと、ぱたりと床につっぷした。
碧はあわててにじり寄って、助け起こしたが、
「ほうっておけ。いつものことだ」
半蔵が制した。酷薄な物いいであった。
「すぐに眼を覚まして、もとのように無邪気にはしゃぎはじめるさ」
と云われても、捨てておく気にはなれず、碧は彼女の頬に筋を描く涎を懐紙で拭いてやり、床に仰向けにしてそっと横たえた。
「毎日きまった時刻になると、場所を選ばずこれをやるんだから、連れて歩く私はたまったものではないよ」
「今のはいったい……」
長門が肝を抜かれたように、半蔵に問いかけた。
「うむ、順を追って話そう」
半蔵は静かに語りはじめるのだった。
「かすみは六日前に伏見城に送られてきた。ちょうど私は京で探索の差配をしていたのだが、容易ならぬ事態とご城代(松平定勝)から呼び出され、見分する仕儀となった」
かすみは、山伏姿の男に連れられて伏見に現れたという。正面きって城に入ってきたわけではなく、朝に定勝が登城すると詰めの間にふたりが並んで座っていた。驚愕して警護の者を呼ぼうとする定勝をとめ、山伏の男はいま碧たちが見たのと同じ光景を見させた。
「男は根来から来たと云ったそうだ」
「根来……」
疑問を口にしたのは長門であった。
「なぜ根来衆がこのような」
「紀州では、またぞろ一揆の気配が漂いはじめている」
と半蔵が云ったのはつまり、また大坂方が紀州で一揆の先導をしているということなのだろう。
「しかし、ご公儀を脅迫するにせよ、挑戦状を送るにせよ、こんな手の込んだまねをせずともよさそうなものですが」
「ふん、きゃつら、このような妖術まがいの手妻を披露すれば、我らが恐れおののくとでも思っているのだろう。低俗な者の考えそうなことだ。まったく単純な発想よな」
伏見城に現れた山伏は、かすみのみを置き去りに、姿を消したそうである。
「で、合議の末、私が駿府におわす大御所様の御前まで、このかすみを届けることになったわけであるが、ふと、敵が妖術を使うとすれば、その道に熟達した者にまかせるべきだと思いついた。藤林衆は
「はあ」
と長門はちょっと迷惑そうな返事をした。
ようするに、半蔵はこの一件を、自分達が多忙なものだから、こちらに丸投げしてよこしたのだ。ふたたび大坂で戦端が開かれかねない緊迫した状況のなか、探索任務に忙殺されているのは公儀忍だけではないのに。
現代ふうに云えば、大企業が権高な物言いで下請け会社に面倒な仕事を押し付けてくるようなものだから、長門としてもやりきれない。
「それにこの騒動の裏で暗躍するのは、なにも大坂方だけとはかぎらぬ」
「と云いますと」
「世の騒乱が長引けば、けしからん者が策動しはじめるということさ」
半蔵ははっきりとは口にしなかったが、幕府に従順な態度をとっているように見えて、面従腹背、機と見れば手のひらをかえす大名も出かねないということであった。
「一揆が起きる前に騒動をとめるのが第一義。出来得るならば首謀者をとらえて、どんな責め苦を味わわせてもかまわん、裏で操っている者の名を訊き出せ」
長門と碧が頭をさげて了解する。と、同時に、かすみが眼を覚ました。
彼女な何事もなかったように、まるで午睡から覚めた子供のように眼をこすりながら起き上がり、左右を見まわして、何か見つけでもしたのか庭におりて小走りに駆けて行った。
「あれだ」
半蔵はあきれたように首を振って云った。
「私ひとりなら、もう少しここで休息させてもらうところだが、あれと連れ立っていては旅程がまるでさだまらぬ。これで失礼しよう」
勢いよく半蔵は立ち上がった。
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