第八章 紀州動乱

八之一

 春の九度山の、紀の川ぞいの土手には、タンポポやスミレやホトケノザなどの野草が美しさを競いあってでもいるかのように咲きみだれている。草むらを吹き渡ってくる風はけだるいような生ぬるさで、陽射しは暑いほどに照りつけてきて、碧は立ち止まって、高野山に連なる山麓を眺めながら、手ぬぐいで額に玉のように浮いた汗をぬぐった。

 九度山に来るのは半年ぶりで、前に来たときの、黄色や赤のもの悲しくなるような秋の美しさが彩っていた山河の景色を、碧は脳裏に描いた。

 以前任務でここを訪れたときは、朋友の伊賀崎嵐いがさき らん城戸鶫きど つぐみがいっしょだった。

 そう思うと、たちまち碧の胸裏に苦い気持ちがわきあがる。

 あの大坂城での花神恭之介かしん きょうのすけたちとの闘いは、碧たちの敗北であった。三人とも完膚なきまでに叩きふせられたと云っていいほどの、大敗北であった。

 徳川勢の大坂城天守閣を標的にした砲撃による混乱を利用して、碧は逃げた。

 向かいの塀の瓦礫に埋もれて伸びていた嵐をかついで逃走するのが精いっぱいで、敵の陰陽師に捕らえられていた鶫は、涙を呑んで見捨てざるをえなかった。

 ――鶫は無事だろうか。

 この三カ月の間、不安と悔恨にさいなまれない日は一日たりともありはしなかった。

 花神恭之介は女を凌辱するようなことはせぬであろうと思いたいが、敵の一味には、堕落神父も破戒僧も、京で鶫が思いをよせたという陰陽師もいるのだ。

 命は無事であったとしても、身体まで無事だとはかぎらない。

 もとの許婚で、師父である加瀬又左衛門を殺した花神が近くにいると知って、判断に疎漏をきたし、無謀な闘いを挑んだ自分を、碧は絶えず責め続けている。

 嵐はいま、ひとり御在所の果心居士の隠宅に籠もって――驢馬ろば山羊やぎの世話をしながら――修行に励んでいた。花神一味の破戒僧鬼巌坊きがんぼうに負けたのが、そうとうくやしいようであった。

 なので、今回の任務には、嵐を誘わなかった。

 人をやって連絡だけはしておいたので、気が向けば後を追ってくるだろう。

 碧は紀の川に沿ってのびる道を、西へと歩んだ。

 川の土手の、見覚えのある銀杏の大木は青々として、その下を歩きすぎると、山のふもとに真田屋敷の屋根が見えてきた。その黒い屋根を眼にするとかつてのそこでの出来事がまざまざと思いだされてくる。

 奥方様はお元気だろうか。あのやんちゃなあぐり・・・姫はすこやかであろうか。

 任務の最中でなければちょっと屋敷の様子をのぞいてみたい気もしたが、碧は雑念を振り払って脚を急がせた。

 そうして一里ほども来ただろう、紀の川の北にある集落に入った。

 一揆は、紀伊西岸に位置する有田郡、日高郡、紀の川沿いにある那賀郡や名草郡で起きつつあり、和歌山を南と東から挟み込むような具合で胎動している。

 伏見城に現れた男は根来から来たと云ったそうであるが、その根来寺までまだ五里ほどもある。が、もうこのあたりの村から、すでにきな臭さが漂いはじめていた。まるで埋み火がじょじょにくすぶりはじめているような印象である。

 気を抜いて村人に見とがめられでもして、すべてを台無しにしてはいけないから、碧は平然とした顔で、しかし油断なく周囲を観察しながら歩いた。

 住民たちから不審に思われないようにするため、袖なしの裾の短いいつもの野良着を着て、目立つので宝刀「暁星丸」や忍者刀は屋敷に置いてきて、後ろ帯に短刀をたばさんでいるのみで、一見して百姓娘にしか見えない姿だったが、ともかく用心するにこしたことはない。

 百姓たちが何人か、田畑で農作業をしているのを見かけたが、別段不審な風はなく、普段通りといった様子だが、碧が意識しるぎているせいもあるのだろう、彼らからそっと監視されているような気もした。

 そうしたのどかな風景の街道からちょっとはずれて、茅葺き屋根の家々が並ぶ脇道へと入った。

 それとなく家の内を窺いながら数件通り過ぎ、少々大きめの、農家の前にさしかかったときである。

「おおい、おおい」

 どこかから、少女のものらしい、碧を呼ぶ声がする。

 ――聞き覚えのあるような……。

 懐かしささえ感じる声音である。

「おおい、碧どの、そこにいるのは碧どのではないか」

 碧は溜め息をついた。どうやら、面倒な人物が自分を呼んでいる。

 周囲を見回し、ひとけのないのを確かめると、垣根を乗り越え、声のした納屋に身をよせ、明かりとりの格子窓から中をのぞいて、

「なにをしておいでです」

 あきれたように声をかけた。

 窓には、真田幸村の息女あぐり姫が、必死な形相で格子にしがみついてこっちを見つめている。

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