第二部 序章

其之一

 藤林碧ふじばやし あおいは兄長門ながとからの突然の呼び出しをうけた。

 日課にしている忍術の鍛錬の最中であったが、すぐに切りあげて屋敷に帰って、帰ったその足で、いつもの百姓娘のような野良着のまま、客間へと廊下を急いだ。

 縁側から見える庭は、忙しさにかまけて手入れが怠りがちであったが、躑躅つつじは満開で薄紅色の花を咲かせて、鮮やかな色どりを放っている。

 おや、と碧は脚をとめた。

 その庭の片隅の、これも花を咲かせはじめた八重桜の下に、ひとりの女が立っている。

 女はその花と同じような色の小袖を着て、じっと顎を上向けて花に見入っているようすである。

 その女が、碧の視線に気づいたのか、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 どこの客人だろうとあわてて頭をさげた碧であったが、女はなにか不思議なものでもみるように、精気のない眼でこちらをみている。と思ったら、唐突ににっこりと子供のような満面の笑みを浮かべた。その落差は尋常ではないものであった。

 まるで、心を病んでいるような……。

 ではあっても、髪は綺麗に櫛が入れられて、つややかな垂れ髪が風に揺れているし、身なりも整っている。

 昼前のうららかな陽射しに浮かぶその病的なまでに白い肌の肢体は、凄艶なほどの美しさで、いささか好奇心が惹かれるものがあったが、碧は気持ちを振り払うように立ち去った。

 客間のそばまでくると、中から男ふたりの話し声が聞こえてきた。ひとりは兄であったが、もうひとりは、まったく聞きおぼえのない声で、ふたりはなにか世間話でもしているのか、ときどき笑い声すらまじって聞こえてくる。

 客人が同席しているのなら、この格好のままではみっともないと考え引き返そうとしたが、

「かまわんよ、そのまま入りなさい」

 その客人が、碧の気配を察してか、声をかけてきた。

 碧は、障子の影からでると、敷居ぎわに手をついた。

「そうかしこまらなくてもかまわん。顔をあげなさい」

 碧の挨拶がすむと、客の男が云った。

 うながされて顔をあげてみると、三十半ばと見えるその男はヤモリのようなのっぺりした顔をしていて、血に温かみのないような印象である。総髪を後ろへ撫でつけただけで、こげ茶色の小袖に同じ色の羽織を着けて、儒学者が軍学者のような風体だ。

「おや、思っていたよりも若いな」

 驚いたようにも聞こえたが、抑揚のない、なにか不気味さすら感じられる声調である。そうして、

「公儀忍衆しのびしゅうの服部だ」

 名乗りを聞いて反射的に碧はまた頭をさげた。

 服部半蔵――。

 徳川幕府の諜報機関である忍衆(伊賀組)の頭領で、碧の目の前にいるこの男は三代目にあたる。(この物語では徳川忍衆の頭領に最初に任命された半蔵正成を初代とする)

 二代目が配下にストライキを起こされて責めを負う形で解任となり、かわって服部半蔵の名を継いだのであるが、先代とは血のつながりの薄い親戚で、忍術のほうもさほどではないという噂で……。

 床の間を背に、静かに端座する無表情な男からは、得体の知れない妖気がにじみでているようで、実は忍術の達人であるのに無能をよそおっているのではないか、という気がする。

 忍はけっしてその存在を世間に知られてはならず、闇の中で生まれて消えゆくことが至高の誉れ、という観点にたてば、当代半蔵が忍としての爪を隠しているとするならば、忍としての在りようを見事に体現しているということに他ならない。

「ともあれ」と、その三代目服部半蔵は、話を続けた。「長門殿が太鼓判を押すのであれば、妹ごにまかせて問題はなかろう」

 言葉から察すれば、何か碧に任務をあたえるつもりのようである。

 そうして半蔵は手招きして碧を部屋のなかへいざなった。

 碧が兄のかたわらに座ると、

「うん、そろそろ頃合いか」

 半蔵は外を見て言った。陽の傾き具合で時刻をはかったようだ。

「まずは、見てもらったほうが、話がはやかろう」

 そう云って半蔵は、庭に向かって、おういかすみ・・・、こっちへ来なさい、と声を張って呼びかけた。どうやら碧が先ほど見かけた女を呼んだようだ。

 呼ばれたかすみという女は、ぱたぱたと草履をならして庭の向こうから小走りに寄ってきて、半蔵にうながされて縁側にあがると、ぺたりと座った。諸事、子供のようなふるまいをする。

 碧はいぶかしんでかすみを見たが、半蔵はそれから口をつぐんでしまった。

 しばらくして、たまりかねたように長門が、あの、と声をかけたのに、

「来るぞ」

 半蔵が手をあげて長門を制し、かすみを凝視してつぶやく。彼女を見つめるそのぬめりを帯びた眼光に、一瞬、刃のような鋭さが宿った。

 言葉の意味をはかりかねて、碧と長門はさらに怪訝さを深めてかすみをみると、とたん、かすみが突然おこりにでもかかったように痙攣しはじめた。

 そうしてしだいに目尻が裂けんばかりに眼を見開き、瞳孔は拡散し、口をだらしなく開け、天井を見上げて低くうなり声をあげはじめた。

 そのおぞけの走るような光景に、碧の眼はくぎ付けになって瞬きすらも忘れてしまう。

 かすみの顎がはずれたかと思えるほど大きく開かれた口からはいく筋もの唾液がたれ、黄泉まで続く洞穴のような喉から、まるでその黄泉の底から湧き出てくるような声がうめき出た。

「うせよ……」

 かすみの口は震えるばかりで動いてはいない。

「徳川は、この地より消え失せよ」

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