七之十三

 鬼巌坊は大きく脚を前後に開き、左脚を伸ばしたまま後ろの右脚をまげ地に尻がつくほど腰を落とし、開いた右手を頭の上に、左手を股のあたりにおいて、構えていた。

 嵐はそのまったく未知の構えに、いささかのたじろぎを覚えたが、それもただ一瞬、臆することなく、相手の顔をめがけて回し蹴りを放った。

 それをたやすく見切った鬼巌坊は、ちょっと顔をのけぞらして避け、避けたと思ったら、重心を前方に移してその身体がくるりと回転した。

 まげた左脚を軸にして、右脚がコンパスのように回る。

 黒染めの衣を翻して襲い来る足払いを、嵐は足をあげて避ける。だが、鬼巌坊は、今度は右足を軸にさらに回転し、もう一方の脚で足払いを繰り出してきた。

 体勢が崩れたところに、さらに連続しての攻撃であったので、嵐は大きく後ろによろめくように避けざるをえなかった。

 鬼巌坊の身体が起き上がる。

 身体を起こす一瞬の隙に、嵐は崩れた姿勢を整えつつ、正拳突きをだした。

 いや、出しかけたところへ鬼巌坊、今度は膝を腹につけるように左脚を折り曲げて、右脚だけで立った。

 とっさに出しかけた腕を引っ込める嵐へ、彼は左脚を踏み出し、右脚で蹴りを放った。

 嵐は腰を引いてかわそうとした。

 腰を要にして振り子のようにふられた相手のその右脚が、しかし、途中で止まる。足が戻され、また一本立ちになる。

 つられて、攻撃しようとする嵐であったが、しようとした瞬間に、また相手の左脚がさげられた。

 嵐は攻撃をやめて、一歩さがった。

 鬼巌坊の左脚がまた折り曲げられ片足立ちになった。

 嵐の頬に、汗がひとすじ流れた。

 彼女はまったく困惑していた。

 相手の動きがまったく読めない。

 これまで立ち合った時とはまるで違う相手の動きに翻弄されていた。

 鬼巌坊の武術は確かに読みにくかった。

 みんの拳法だという少林拳の独特の挙動は、彼女の知る日本のどの体術ともまったく異なっていた。

 だが、それでも直感で、これまでは動きが読めたのである。最初の一戦はともかく、さきの九度山での闘いの折は、相手の動きを気持ちよいほどに読みきることができた。

 しかし、今回はまるで読めないのだ。

 ――本気を出して、自分に向かってきている。

 そう思わざるをえない。

 鬼巌坊の身体がふわりと動いた。

 足を踏み出しつつ、全身が回転し、嵐の右側から裏拳が打ち込まれた。

 嵐は右手で防御し、同時に左手を相手の襟に飛ばす。

 だが、鬼巌坊はまたふわりと身体を引いてそれを躱し、反動をつけて掌底を打ってくる。

 顔面を狙うその手のひらを、腕で防御する。

 手のひらがすんでで止まり、もう一方の手のひらが腹部を襲う。

 嵐は腰を引いて躱す。

 直後に防御のはずれた顔面に掌底が入った。

 のけぞりつつ、嵐は後ろによろめいた。

 体勢を立て直したところに、すぐさま相手の手のひらが突っ込まれてくる。顔、腹、顔……。それらを防御しようとすると、相手の手はとまり、別の手が別の部位へ向けて飛んでくる。

 顔に向かってくる掌底をふせごうと両手でガードした時、鬼巌坊の身体がまた回転して、立った姿勢から、ふいに足払いをかけてきた。

 嵐は躱すついでに、数歩、後ろにさがった。

 ――完全に押されている。

 攻撃する隙がみえない。投げ技に持ち込めない。

 なんとか自分が攻撃する流れにもってかなくてはならない。

 口が、苦い血の味で満ちた。

 さっき、眉間に入った掌底のせいで、鼻から血が流れていた。

 鬼巌坊は、すでに構えをあらためている。右手のひらを前に突き出し、腰を落としていた。

「お前のけんは」彼の口がふいにひらいた。「強大な力をもつ妖魔妖鬼の、その戦闘力を凌駕し、ねじ伏せるための拳であった。ただ、力のみの暴力にすぎなかった。それが、己の流儀を曲げ、旋律のなんとかという氣功法を会得し、組み技を鍛錬し、みごとここまで短期間で成長した」

 坊主は無精髭におおわれた口元を、にやりと曲げた。

「この鬼巌坊、感服した。おそれいった」

 そう云いながら、彼の言葉は、嵐の頭の直上から覆いかぶさるような、尊大さと威圧感があった。

 そう感じるのは、嵐が完全に彼の動きに翻弄され、彼の意気に飲まれているからであろうか。

「いい加減、終わろう。ふたりの闘いに終止符を打とう」

 深沈とした声音をもって、彼は云った。

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