七之十二

 花神恭之介は、微動だにしない。

 右手に持った刀をだらりとさげて、悠然とした姿勢で立っている。

 彼は思っていた。

 ――旋律の律動とはなんだ。

 このことであった。

 果心居士は、彼に修行をつけていたかつて、そんな奇妙な技や術はまったく教えてはくれなかった。

 それとも、恭之介が居士のもとを離れたのちに編み出された技術なのであろうか。はたまた、居士が恭之介の人間性によこしまなるものを感じ取り、会得した妖術忍術の技法のすべてを教示しなかったのであろうか。

 ともかく、彼が鬼巌坊やエミリオから伝え聞いていたその旋律の律動というものを、ひとめ見てみたいものと、いつもの彼に似ない、心のどこかで浮き立つような気分を持ちながら、目の前の碧をじっと見つめていたのだった。


 碧は左手の忍刀を前に、右の妖刀暁星丸を顔の横に置き、腰を落とし身体をややはすに構えて恭之介を見る。目を細め、半眼の状態で見るとはなしに相手を見る。そうして、静かにおだやかな呼吸を繰り返し、魂と心と身体に流れる旋律メロディーを身体の中心に集中させるように、律動りずむを調節する。

 やがて、体内の血流を感じるごとく、旋律の律動の流れを身体全体で感じはじめた。

 魂心体の旋律がひとつの律動となって、丹田のあたりに集中していく。

 その律動が最高潮に達した瞬間――。

 碧の身体が残像を描いて、一歩踏み出した。

 その一歩が大きい。

 なにげに脚を進めたようにみえて、氷のうえを滑走するように前進した。

 二間ほどもあったふたりの間合いが、転瞬にせばまった。

 右腕の暁星丸がするどく空気を切り裂きながら、上段から振り下ろされた。

 恭之介は右足を引いてそれをかわす。

 碧の左手の忍刀が薙がれる。

 横薙ぎのその一閃を、彼は刀ではじいて、一歩後退した。


 恭之介は瞠目している。

 ほんの先ほどまでの碧とは、何かが違っている。何が何とはわからぬまでも、確実に違っている。

 ――これが旋律の律動というものなのか。

 碧の右腕が回転して、ふたたび上空から振り下ろされた。

 恭之介が躱す。

 と、碧の身体が地に沈んだ。ように見えた。

 そして身体を回転させながら立ち上がりつつ忍者刀が振られた。

 恭之介はさらに一歩下がる。

 立ち上がった碧の身体がそのまま跳躍し、恭之介の直上から攻撃してくる。躱すと、そのまま着地し、身を沈め足元を攻撃する。

 かと思うと、彼女は横に滑って斬り下げてくる。

 両腕の刀が回転し、身体がふわりふわりと上下左右に舞い、視界のそとから間断なく攻撃を続けてきた。

 しかも、その刃の一閃は、確実に恭之介のまとう瘴気を斬り裂いている。

 彼は、刀でいなし、回避しながら、息を呑んだ。


 果心妖剣法、胡蝶輪舞こちょうりんぶ――。

 蝶が舞うごとく、しかも、まるで数羽の蝶が相手の周囲を輪になって舞うように翻弄し、羽がはばたくように息もつかせず攻撃を続ける。

 しかもそのはばたきは、旋律の律動により、凄まじく鋭利な斬撃となる。その刃風で皮膚を裂くほどに。

 御在所岳の樹林を伐り倒しながら、碧が我知らず身に着けた剣技であった。

 ――いける。

 碧は確信した。

 このまま押しきれば、かならず恭之介をしとめることができる。

 たまらず両腕で柄を持ち、顔前で攻撃を受けとめた恭之介の刀に、碧は連続して左右の刀を打ち込んだ。

 ひと呼吸の間に数度、残像と残像が重なり合うほどの速さで打ち込んだ。

 悲鳴のような音とともに、恭之介の刀が根元で折れた。折れた刃はくるくると回転しつつ宙を舞って、地面につき立った。

 暁星丸が、仇敵の首もと目がけて、振り下ろされる。


 折れた刀をためらいなく投げ捨てた恭之介は、念動力で瘴気を操り、碧の右腕にぶつけた。

 多少その速度を遅延させたものの、しかし暁星丸はその瘴気を引き裂いて、そのまま振られ、首元へと迫ってくる。

 とっさに恭之介は左手で脇差を逆手に抜いて、鍔元で碧の攻撃を受け止めた。

 脇差は折れはしなかったが、しかし、凄まじい圧力で――彼の知っている碧とは思えない腕力で、受け止めた脇差を押してくる。

 こらえきれずに膝を屈してしまいそうになるほどの圧力であった。

 ぎりぎりとこすれ合う刃と刃の向こうに、怒りと憎しみに底光りするような瞳で、碧が恭之介を睨んでいた。

 清々しいきらめきを放っていたかつての彼女の眼とはあきらかに違う、嫌な光を宿した冥い眼差しであった。

 ――俺もこんな眼の光をしているのだろうか?

 碧は恭之介ひとりに憎悪を向けている。

 しかし彼は違った。

 彼はすべてを憎んでいた。

 人も、戦も、世界も、時代も、すべてを憎悪していた。

 きっと碧よりももっと深くて黒い光を宿しているのだろう。

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