七之十一

 二本の脚で立つ妖狐の、七尺を越えんとする体躯を、小さな鶫が上目遣いに見やった。

 銀白色の体毛が陽光を反射して、純白よりも白く彼のその身を輝かせている。

 金色の瞳のまなじりを吊り上げて、妖狐は憎しみで荒げる白い気息を、その裂けた口から吐き出していた。

 そうして妖狐と化した祥馬は、人のそれのように長く伸びた指を、何かをつかまんと欲するごとく広げて、鶫に向かって伸ばした。

 だが、彼は何も云わぬ。

 ただ憎しみをみなぎらせて、ただ鶫を睨む。

 鶫の心に彼との日々が鮮明に蘇り、流れ過ぎていった。

 彼も思い出しているのだろうか。ふたりで過ごしたわずかな時を。同時に、好いた女に利用された苦痛さえも。

 祥馬の心の片隅に鶫に対する未練の残滓が揺蕩たゆたっているのなら、彼をこちら側に連れ戻したい。

 そう思うのは鶫の身勝手であろうか。

 任務のために、男の想いを利用した鶫に、彼からの愛を期待するのは、ただのわがままであろうか。

 ――私は祥馬と闘いたくはない。

 できうることなら鶫はこの場から逃げ出したい。

「お願い」やがて絞り出すように鶫は云った。「私を赦してとは云わないわ。でもお願い、どうか悪辣な人間達とは縁を切って、もとの生活にもどって」

「黙れ」祥馬も、絞り出すように、震える声で云った。「私を裏切ったお前に云えたことか。私を騙し、さんざん利用し……」

 その先はもう声にならなかった。妖狐は、ただ怒りに顎を振るわせているだけであった。

 ――私はあなたを愛していた。いえ今でも愛している。

 鶫は叫びたかった。心の奥に押し込めた思いをすべて解き放って、暗澹とうち沈んだ気持ちを楽にさせたかった。

 怒りにひきつる彼の眼を見つめ、彼女はただ唇を噛んだ。

 昔日の想いは風に舞い散り、すでに荒野のかなたへ消え去ってしまったのだろうか。

 ふたりはもう永遠、言葉で通じあうことなないのだろうか――。

 祥馬の素早く振りあげた右腕が、鶫にはひどく緩慢な動きに見えた。

 天空に差し伸ばした、鋭く伸びた爪が、空気を引き裂くように振りおろされた。

 鶫はそれを体をひいて躱した。

 胸の前を、刃のような爪の巻き起こした風圧が通り過ぎた。

 躱した勢いで身体を独楽のように回転させつつ、鶫はつかからおもりのついた鋼糸はがねいとを引き出すと、回転させた身体の勢いを乗せて妖狐の足元へ放つ。

 脚をからめんとする鋼糸を祥馬は前方に跳ねて躱し、同時に鶫に向けて爪を振るった。

 その爪を鶫はしゃがんで躱して、直後に上空へ飛びあがり祥馬を飛び越しつつ手裏剣を構え、背を向けた祥馬の首筋へと向けて投げる。

 振り返って祥馬は手裏剣を叩き落とした。

 地に降りた鶫から、続けて手裏剣が放たれる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、祥馬は平然と手のひらで蠅を払うように手裏剣を弾き飛ばした。

 ふっと彼がひといきついた瞬間、ふたたび鶫は錘を投げる。

 祥馬は、今度は大空へ向けて一直線に飛びあがった。

 と、大地を滑るように飛んでいく錘が、直角に曲がり、祥馬を追って上方へと伸びてきた。

 鶫は旋律の律動を鋼糸に流し錘を操ったのであるが、そんなことは祥馬の知るよしもない。

 気がついた時には、両膝を縛るように鋼糸が巻きつき、しかも、若い娘の力とはとても思えぬ、(これも旋律の律動による)凄まじい膂力で、天空へと昇っていく祥馬の身体を引きずりおろし、大地へと叩きつけた。

 叩きつけられ、一瞬意識が遠のくほどの衝撃が祥馬の全身に走る。

 あおむけに地面に伸びたその身体へ、躍り上がった鶫が上空から短刀を閃かせて斬りかかった。

 妖狐の胸に鶫は馬乗りに乗り、首へと刃がとどいた。

 だが、刃が白い毛におおわれた皮膚にあてがわれた瞬間、その動きがふととめられた。

 ためらいの一瞬の隙に、祥馬は鶫の身体をつかみ、投げあげる。

 緩んで彼の脚からはずれた糸を空中で柄へと戻しつつ、鶫は家の屋根のむねにひらりと降りた。

 身体を起こした祥馬が追って跳躍して、瓦を軋ませつつ屋根のうえに降りたつ。

 祥馬は、腕を屋根に突いて、まさに野生の狐が獲物に襲いかからんとするごとく身構え、低く威嚇するように唸り声をあげ、さらに憎しみをつのらせた瞳をもって鶫を睨む。

 鶫も、彼の攻撃に即応できるように、短刀を構えた。

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