七之六
「おい不肖の弟子よ。おるのじゃろう、久しぶりに顔を見せい」
庭の真ん中から果心居士が呼ぶと、東隅の部屋で人の動く気配がした。
「師がわざわざ会いに来てやったのじゃ。挨拶くらいせんか」
障子が静かに開き、縁側に、全身深紫の着物に身を包んだ白皙の男が姿を現した。
男は座ったまま黙然と居士を見つめ、やがて静かに頭をさげた。
「相変わらず愛想のない男よのう」
「ご壮健なご様子、恐悦至極」
「よくもまあ、心にもないことを平然と云えたもんじゃて」
薄暗い部屋の中で、花神恭之介はくすりと笑ったようであった。
「外界は今、西も東も大将から足軽に至るまで惶忙極髄に達しておるに、おぬしはずいぶん暇を持て余しておるようじゃのう。惰眠をむさぼり怠惰を楽しむ世過ぎとはうらやましいご身分じゃ。弟子がそうまで出世するとは、師として鼻が高いわ」
恭之介は謀臣である。大野治長の要請に応じて的確なアドバイスをするのが彼の役目なのである。いま治長は城に詰めきりで、講和に向けて淀の方を説きくどくのに寸暇がない。昼を過ぎるまでは格別呼び出しも諮問もないだろうとて、恭之介はそのわずな暇に、身だしなみを整えるために戻っていたにすぎない。
「師匠こそ、よくここがおわかりに」
「なに、まだ機能していない、へたくそな結界をたどってきたまでよ」
その時、部屋の奥の暗がりに端座していた人影がみじろぎした。
幸徳井祥馬であった。
彼は夜陰、城のあちこちに結界を張っていて、昼間は屋敷内で休んでいることが多い。大野屋敷の誰もこの男のことを印象に残していなかったのは、そのためである。
居士は結界が機能していないと云ったが、その結界は敵が城内まで攻め寄せなければ発動しない型のものであるので、祥馬にへたくその汚名をなするのは酷であろう。
果心居士は濡れ縁まで来ると、恭之介に半ば背を向けて腰をおろした。
「奥の若いの、茶を所望じゃ。そう、そのお前らの茶碗でかまわんて」
祥馬は怪訝そうに、そして混迷のうちに恭之介の顔を見た。
恭之介は目顔でうながしたが、祥馬は、ちょっと奥に引っ込んで、新しい湯呑み茶碗を持ってきて、居士の傍らにおいて、またすぐに部屋のすみに引っ込んだ。
居士は音を立てて茶を
「なかなか良い茶を飲んでおるの」
「お褒めにあずかり恐縮です」
「褒めてなぞおらんわ」
云って居士はまた茶を啜る。
「大野修理はどうじゃ。扱いやすいか」
「明朗怜悧な方でございます」
「うわべだけのな。お前とよう似とるわい」
恭之介は微苦笑で答えた。
「権力に取り入り、人心を操り、徒党を組んで首魁となって、その存念いずこにありや」
「師に語ってもせんなきことでございます」
「楽しいか」
「悦楽ではございません。使命と心得ております」
「魂魄石などを集め、その遠望になにを見る。人を裏切り、命を奪い、周囲を混乱に落とし、それでも使命と高言できるか」
「我が崇高なる大志をご理解いただけるとは思ってはおりませぬが、理想のためには犠牲もやむなしと心得ております」
「
「正義で世界は変わらんのです」
「痴れ者が」
果心居士は茶碗を叩きつけるようにしておくと、飛び降りるように庭に立った。
くるりと振り向き、振り向きつつ手にした白木の棒を左右に引っ張った。
隠し杖であった。
ふたつに割れた棒のなかから白銀の身を輝かせつつ刃が抜き出された。
両刃の剣であった。
その陽光はじく切っ先を、弟子に向けて老師は云った。
「かつて、わしは気まぐれに忍妖の術すべてをおぬしに伝授した。おぬしが悪徳に走り世に混乱をもたらさんとするは、すべて、わしの戯れが招いた結果じゃ。わし自身の手で幕を引こうぞ」
奥から祥馬がすっと縁側に進み寄った。
それを恭之介が制し、
「よい、私が相手をする」
「しかし」
「よいのだ、それより、刀を頼む」
祥馬はうなずいて、床の間の刀掛けの大小を取ってくる。
それを受け取った恭之介は腰に差しながら立ちあがりつつ、
「いつか、このような日がくるとわかっておりました」
足袋のままで地に降りた。
「わかっておりながら、避ける努力をせなんだの」
師の言を聞き流して恭之介は刀を抜くと、構えもせずに腕をたらし、優雅と云えるほど自然な姿勢で立っている。
そしてその身体からは、徐々に紫黒の瘴気が揺らめき、立ちのぼり始めた。
居士は鞘を捨て、切っ先を恭之介の鼻先に向けたまま、云った。
「御在所岳の霊気を含んだ玉鋼を、当代の関の孫六に無理云って鍛えさせた、
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