七之五
そのころ、西の丸にある大野修理の屋敷の門を、ひとりの薄汚れた老人がくぐっていった。
髪も髯も真っ白で伸ばし放題に伸ばして、そのなかから大きな眼ばかりがぎょろりとのぞきみえている。
老人はいつも愛用の藜の杖でなく、三尺六寸ばかりの白木の棒をついて、まったく何気ないふうに門のうちへと入っていった。
あまりの自然さに、門番はただ横目でその姿を見送ったにすぎなかった。
そうして老人が大野修理の居館のあたりにまでくると、さすがに周囲にいた侍がふたり、蓬髪垢面のその異様なる風体を見とがめ、道の両側から挟み込むように近づいてきた。
ふたりは刀の柄に手をおいて、
「どこの物乞いじじいだ」
老人が手を軽くふると、ふたりの侍は、まるで見えない巨人の手で押さえつけられたように、無様にその場に這いつくばった。
「いや、案内は無用じゃて。だいたいわかるでの」
果心居士は、花神恭之介の屋敷に向けて悠々と歩いてゆく。
真田屋敷の裏口から、碧はそっと忍び出た。
お梅以外の人たちには誰にも気づかれたくない、と思っていた。
ほんの数日一緒に過ごしただけであったが、この屋敷の人々は、女中から下働きの老婆まで、みな気持ちのいい人たちであった。
九度山の屋敷でも同様の心境になったことを思えば、家中に漂う清々しいほどの暢快さは真田幸村の人柄に起因するものとみて間違いないだろう。
だからであろうか、碧は皆に別れを云うのがなにかつらい気がしたのだ。
と――、
「あら、お帰りなの?」
路地から声をかけてきた娘がいた。
碧がはてとふりむくと、そこには、
「
京都にいるとばかり思っていた鶫が、塀の角から顔をのぞかせている。
「せっかく迎えに来たのに、無駄足だったわね」
「え、なぜここにいるのよ?」
碧は嵐の時と同様の反応をした。危険などまるで考慮することなく大坂城内に忍び込んできた朋輩たちが、碧からするとどこか理解できない。
「藤堂家の皆さんが一生懸命掘っている
「あなたもなの?」碧は心底あきれたという風に顔を左右に振りつつ、「ではなくって、京からここまで来た理由を訊いてるのよ」
「伝令でこっちに来たんだけどね、そしたらふたりが城のなかにいるっていうじゃない」
「だからって、わざわざ潜入して来る必要はないでしょう」
「ずるいわよ、私が
「別に楽しんでなんかないけどね。それより、その体調のほうはもういいの?」
「べつに、もともと風邪をひいたくらいのものだったんだから」
「そうかしらね」
「そうよ。碧のほうこそ、身体は大丈夫なの?ずいぶん熱が出たって話じゃないの」
「なんで知ってるのよ」
「真田の出丸に忍び込んで猿飛佐助をつかまえて、全部訊き出したの。あなたが今どういう状況におかれているか――つかまっているのか逃げ回っているのか、情報をつかんでいるのは猿飛くらいしか思い浮かばなかったしね」
それを碧はちょっとあきれたような顔で聞いて、
「まったく猿飛は何を考えているのかしら。捕虜の居所をあっさりと教えるだけじゃなくて、侵入者を野放しにするなんて」
「そのおかげであっさりとあなたを見つけることができたんだから、感謝しなくてはね」
「そうねえ、猿飛を軽佻浮薄の徒であると断じてしまうのは気の毒というものかもしれないわね」
「彼にしてみれば合戦の忙しさもあるし、小娘の間者のふたりやみたり、かかずらっている余裕なんて、きっとないのよ」
「嵐は虱潰しに探してここにたどり着いたって云ってた。よくもまあ探り当てたものだと感心するわ」
「私はそんな無駄な労力は使わないわよ。あんな単純な頭の人と一緒にしないで」
「それは失礼しました」
「じゃあ、帰りましょうか。嵐はどこ?」
「そう、そのことよ」
「そのこと?」
碧は、顔を引き締めて云う、
「花神がここにいるのよ」
「げえっ」
と胃のなかから吐き出すようにうめいたのは、花神屋敷のはす向かいにある長屋の屋根にいた嵐である。驚倒したといっていい。
彼女はどこから手に入れたのか、その屋根板とほとんど同じ色のぼろ布をかぶって、屋根の棟から眼だけのぞかせて屋敷を監視していたのであるが、いつも考えるよりはやく反射神経で行動するようなこの娘が、その布のしたでさすがにとまどった。
師である果心居士が、いまその花神一味の隠れ家の、瀟洒な門をあけて入っていくのであった。
しかしながら、やはりそこは嵐である。じっとしているのがもどかしく、さっと身体を起こしかけた。
だが、
――何か思惑があるんじゃなかろうか。
果心居士の、いつもはかりかねる心中を推し量って、起こしかけた身体をもとにもどした。
――いましばらく様子を見守るしかない。
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