六之十八(第六章完)
しばらくして、碧はお梅やお浜という侍女に手伝ってもらって身体を起こしてもらい、お粥をすすった。
三日の間、まったく腹になにもいれていなかったせいで(水は飲ませてもらっていたようだが)、数口の間は吐き気におそわれたが、じょじょに胃も目覚めていくようで、ちょうどよい具合にあたためられた粥が生気をあたえてくれるようであった。そうすると、身体ばかりでなく頭もだんだんと覚醒していくようで、なにか心地よい気持ちにつつまれるようでもあった。
お梅は、お身体にさわってはいけませんが、などと云いながらも、しきりに九度山の母や妹の様子を聞きたがった。
碧もそれに答えるように、まだ霞のかかったような思考のなかで、当時を思い出しつつ、印象に強く残っているあぐりのようすを語った。するとお梅は、まあとかそんなことがと、眼を丸くして驚いたり困惑げに眉をよせたり、ときに申し訳なさそうにうつむいたりして聞いていた。
「今度あの子にあったら、たっぷりとお説教をしておきますからね」
ついにはちょっと怒ったように頬をふくらませて云うのだった。
「まだ、ふた月ほどしかたっていないのに、もう何年も会っていないような気がします」
そう云ってお梅はどこか遠い目をした。その心底では、愛する妹ともう二度と一生涯会うことができないのではないか、という不安が兆していたのに違いない。
「あ、申し訳ありませんでした。お食事の邪魔をしてしまいました」
お梅が碧に、食事を続けるようにうながした時であった。
縁側にすっと影が差し、
「お、眼が覚めたか」
猿飛佐助が、障子の向こうから顔をのぞかせた。
「おや佐助」と云ったのはお梅である。「こんな時間に珍しいですね。戦のほうはよろしいのですか」
「ええもう、惰性ですよ惰性。こっちも向こうも厭戦気分が蔓延してきてます。早く講和すればいいのに、お偉方はなにやってるんでしょうかねえ」
と不用意な発言をした佐助に、すかさずお梅の鋭い眼が光った。
はっとして、佐助はそっぽを向きながらも、ずかずかと部屋に入ってきて碧の横に腰をおろした。
「いいんですよ」と碧は微笑んで答えた。「おおよそのことは、姫様のお口ぶりから察しておりました」
「あら、そうでしたか」お梅が照れたように微笑んだ。
「お気づかい、いたみいります。猿飛殿にも、ずいぶんお世話をおかけしたようで、感謝いたします」
「いいってことよ」
「そうですよ、この者はあなたにみだらな行為におよぼうとしていましたから」
「いや、それは誤解とずっと申し上げているではないですか」
お梅は声をだして笑った。
九度山のお母さまとそっくりな笑顔をする、と碧も微笑んだ。
「それよりも、碧」
佐助が身を乗り出して、いたずらっぽい笑みをうかべて云った。
「お前の捜していた男、大野様の屋敷にいるぜ」
碧は驚愕のために手に持った匙を落としかけた。
そうして反射的に、なぜかはまるで彼女自身にもわからなかったが、突然はじかれたように立ち上がろうとした。
それを、袖をつかんでお梅が制し、その眼でまた佐助を睨んだ。
佐助も一瞬しまったという顔をしたが、もう遅い。
「まああれだ、とにかくまず元気をとりもどさないとな、敵討ちもなにもないからな、うん」
と粥と匙を取り上げて床に置いた。
「あなたはまったく、碧さんのお身体にさわるようなことを、軽々しく口に乗せるのではありません」
お梅は云いながら、碧を無理に横にして、掛け布団をかぶせた。
碧はまったく放心したようになり、なされるままになっていた。
――なんということだ、なんということだ……。
心がまったくどうかしてしまったように、真っ白になってしまっていた。
恭之介がすぐ近くにいる。
その真っ白な心の中にはやがてあの男の顔が、師父加瀬又左衛門を殺されたあの時の光景が、霧の中で見知らぬ女と口づけをしていた映像が、頭の中でちかちかと浮かんでは消えて、やがてそれは憎悪となって潮が満ちるように彼女の心の中にふくれあがってくるのであった。
碧のうつろなその眼に、庭の南天の実がまたうつった。
血のように赤く、憎々しいほどに鮮やかに。
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