六之十

 さらに一刻ほどが経った。

 碧と嵐は近況を報告しあったり、よもやま話に興じたり、くノ一という殺伐とした職業から解放され普通の少女に戻るひと時であった。

 そこへ長門が帰って来たものだから、あわてて居住まいをただした。

「大御所様は、おそらく書簡を握りつぶされるであろう」

 長門はふたりの前にすわると、碧の苦労を箒で払い飛ばしてしまうような一言を云った。

「こんなことを云うのは恐れ多いが」と長門が云った。「高台院様の書簡は時機を逸している」

 高台院の書簡の内容は、平たく云えば、お互い仲良くしてください、という講和をうながす手紙であった。

 いかんせん、明日総攻めというタイミングである。この拍子で和平交渉もなにもないだろう。

「せっかくの苦労が台無しだ、と云う顔だな」

 長門は落胆した碧の顔に向かって慰めるように云った。

「だが、これで終わりではないのだ」

「と云いますと」

「秀頼公への書簡だ。これを大坂城内へ届けろとの内命がおりた」

 碧と嵐は顔を見合わせた。

「この手紙を読んだ秀頼公や淀の方様の動揺を誘える可能性がある、というわけだな」

 城内は意気盛んで、徳川方の総攻撃を阻止せんと必死の覚悟でみな勇みたっている。

 そこへ、首脳部が和平を企図しはじめれば、主戦派と和平派との間で軋轢が生じようし、そのために城内全体が動揺もしよう、という、ある種ケチな悪だくみに近い計略であった。

「さて、誰にやらせるか……」

 長門は途方にくれたように天井を見上げてつぶやいた。

 自分に命がくだると思い込んでいた碧はいささか無念であったが、その無念を払うように、

「でしたら」と身を乗り出して、「ぜひ私にやらせてください」

 聞いた長門の顔がたちまち豹変し、

「たわけっ」叱声が返った。「図に乗るでないわっ。このような書簡を私に報せもせずに勝手にあずかり、命令もないのに敵の手から奪い取り、それにとどまらず、兵のひしめく戦場へ女がのこのこやってくるなど言語道断な行為だとわからんのか!」

 兄の怒気は凄まじかった。これには、碧が怪我を負って休息している報告を聞いて、しばらくは妹の身の心配をしなくてすむと安堵していた矢先の、妹の身勝手な振る舞いに憤激が煽られたようなものであった。兄の苦衷を察しない妹に対する憤激であった。

「しかしこれは、この仕事は、私が請け負った仕事です。最後まで私にやらせてください」

「それが勝手だと云っておるっ。このような戦時に心気高揚している男どものあふれる敵城へ、女がひとり潜入するという行為が、どれほど危険かわかっておるのかっ!?」

 碧はまだ若い。念ずれば想いは通ずると思っている。理想は持ち続ければ必ず叶うと信じている。そういう妹の世間知らずな、浅薄な想いすら、今の長門には腹立たしいのだ。

「わかっております、それでも私にお命じください、かならず無事に帰ってまいります!」

 碧はいつか涙を眼にいっぱいに溜めていた。

 長門は怒りが心頭に達し、もはや発する言葉すらも霧中に消失し、ただ怒気の噴出するまま、自分の膝がしらをその手で何度も打ちつけるのであった。

「お前たちしかおらんのだ。今、動けるものがお前たちしかおらんのだ」

 長門は苦渋に顔を満たし、しぼりだすように云うのだった。

 ――すべてが裏目にでおる。

 長門は心中で慨嘆した。

 碧がさきほど懸念していたとおり、実は長門は、藤堂高虎の頭越しに書簡を幕閣の中心人物たる本多正純に届けようとしていた。これを手柄とし、あわよくば直臣に引き抜かれんと企図したためである。だが、そこへ当の高虎が同席していたものだから、冷や汗をかきながら、こちらにいらっしゃると聞き及びまして、などと苦しいいいわけをして、主から正純へというかたちで書簡が手渡される結果となったのだった。

 そういう鬱憤を妹にぶつけている自分を嫌悪する気持ちもあった。

 そして彼は疲れたようすで、眼の間を指でつまんで、もう一方の手を振ってふたりに退出するように命じた。

 碧はたまった涙がこぼれないように、眼をいからせて宿舎から出た。

 前で待機していた市蔵と伊助が、中での口論が聞こえたのであろう、心配そうな面持ちでこちらを見つめていた。

 ――私は意固地になっている。

 碧は自分に問うた。

 それはなぜなのか。誰のためなのか。誰のためでもなく、ただのわがままではないのか。あこがれの高台院様のためにと気負い込んでいるだけではないのか。

 仲間たちの視線の中で、彼女はただうなだれていた。

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