六之九

 三十石船に充分な距離をとりつつ並ぶように航走していた小舟に、碧が這いあがると、すぐさま市蔵が手拭いをかぶせて拭いてくれた。

 用意してくれていた湯たんぽを抱くようにして座り込むと、その温かさに寒さでこわばっていた身体がほぐれるとともに、心までが緊張から解きほぐされるようであった。

「お嬢はこのまま陸にあがって身体を温めてください。書状はわしが頭領へ届けます」

 と市蔵が、舵をとる伊助に陸へと向かうように命じるのへ、

「いえ、このまま大坂まで行きます」

「変な意地を張らんでください、お嬢はよう働きました、後はまかせてくだされ」

「意地などではありません。ただ、私が請け負った仕事ですので、最後までやりとげたいだけです」

「それが意地だと申しておるんです」

「ともかく、大坂まで送ってください」

「頑固ですな」

「敵が逆襲にこないともかぎりません」

 そうなった時、戦闘が苦手な市蔵と伊助だけでは、書簡を守りきれない。

 碧の頑なさに溜息をつき、市蔵は手を振ってこのまま進むように伊助に命じた。

 志摩のガレオン船の調査にしても、九度山での戦いにおいても、どこか徒労に終わったという思いが碧の心にわだかまっていた。

 今回こそは、どうしても成功させたい。

 その成功の喜びは、任務を自分自身で最後までやり遂げることでこそ感悦することができるのだ。

 わがままと云われてもかまわない。頑固だと笑われてもかまわない。

 ――とにかく私自身の手で……。


 藤堂軍は大坂城惣掘りの南西、生玉に布陣していた。ちょうど家康が本陣を据える予定の茶臼山の真北にあたる。

 この大坂城南面には、家康、秀忠の徳川主力に加え、伊達、藤堂、松平忠直、井伊、前田といった名だたる大大名を押し並べ、豊臣勢に凄絶なまでの大圧力をかけていた。

 その藤堂軍の陣所にいた藤林長門の元へ、碧が三通の書状を持ってきたとき、彼はどこか苛立たしそうに応対した。そして彼女の辛労に対して兄は、

 ――よくやった。

 と褒めてはくれなかった。

 ただ渋い顔で、書簡を受け取っただけであった。

 長門は宿舎からすぐに出て行った。

 その宿舎は、大将である藤堂高虎の居所の近くに建てられてはいたが、四畳半ほどの板敷きにむしろを敷いて、入り口や窓にはすだれがたらされてあるだけの、雑兵たちの兵舎とさほどかわらない小屋のような造作で、碧にとっては、藩における土着土豪のあつかいをまざまざと見せつけられた気分であった。

 碧は筵の上に座って半刻ほどそこでまどろんだ。役目を終えたことで急に疲れが湧いて出てきたようだった。まだ身体の芯のところに、川につかった時の冷たさが残っている気もした。

 そこへ、

「よう」

 と簾をあげて入って来たのは、なんと嵐であった。

「ちょっと、何してるの?」

 途端に眼が覚めて問いただす碧に、彼女は、

「いやあ、怒られたのなんの」

 頭を掻き掻き、碧の前に座るのだった。

「お師匠(果心居士)に付き合って茶臼山の陣所にいたんだけどさあ、頭領に見つかって大目玉を喰らったよ」

 物見櫓の下で配下を叱責する長門に、どういう風の吹き回しか、大久保彦左衛門がなだめに入ってくれなかったら、もうあと半刻はこってりと油をしぼられ続けたかもしれない、と云う。

「こっちに碧がいるから合流しろっていうしさ、お師匠ももう行っていいって云うし」

「なんでそんなとこにいたのよ」

「それが……」

 と嵐は羽舟うぶね村での顛末を語って、

「おかげでさすがに疲れが溜まってるんだよね」

 と欠伸をもらした。

 しかし、兄長門は、なぜ茶臼山の徳川陣所に向かったのだろう、と碧に疑念がきざした。

 順番からすれば、まず主家である藤堂高虎に書簡をわたすのが順当な筋ではなかろうか。

 兄は、藤堂家の家臣として、そして幕府伊賀組の下請けとして、ほとんど二重生活といっていい状態の毎日を送っていて、気苦労も多そうで、ずいぶん神経をすり減らしている様子だった。

 藤堂家で軽んじられているふうでもあり、高台院の手簡を種にして幕閣に取り入ろうとでも企んでいるのではないだろうか。

「あそうそう、聞いたか」嵐が思い出したように云った。

「なにを?」

「明日、とうとう総攻めらしいぜ」

 そうか、と碧は思った。長門に会った時、なにかぴりぴりした苛立ちを感じたのはそのためだったのだ。

 大坂冬の陣、と後に呼ばれるこの戦は、とうに戦端が開かれていた。

 これまでは、あちこちで野戦がおこなわれていたが、やがて大坂方はほぼ全部の部隊が城に籠り、堅牢なる籠城戦の構えをみせていた。

 そこへ、徳川方が総がかりで攻め込むという。

 となると、高台院の書いた書簡は、開戦を知らなったのではあろうが、まったくの時機はずれの行動だったことになる。

 碧は、まだ見ぬあこがれの女性の落胆にうち沈む横顔が、なぜか目に浮かんでくるのであった。

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