第六章 流水無情

六之一

 もう昼近い時刻だというのに、宇治川の堤を吹く風は、着物の織り目のひとつひとつから染み込んでくるようで、身体を芯から凍えさせるような冷たく厳しい風だった。

 ここしばらく屋敷の内でぬくぬくと過ごしていたあおいにとっては、身震いするほど耐えがたい寒さだった。

 気候の寒暖などは、まったく苦にならないほどの修行を積んできたのに、ひと月怠けただけでこの様だ。と、心中羞恥に耐えない気持ちであった。

 そういう鍛錬のやり直しと、怪我の完治した膝のリハビリもかねて、毎日のように彼女は伏見城下の屋敷から、町の南を流れる宇治川べりまでそぞろ歩いていたのだった。

 宇治川は静かだった。

 普段は大小さまざまの船が上り下りしているのだが、いかんせん戦時である。

 庶民の船などは基本的に通行止め、でなければ厳しい検閲が入る。

 役人に鼻薬を嗅がせるのにも、当然金がいる。

 自然、漁民や小商人こあきんどの船は通行を自粛せざるを得ない。

 どこの船着き場も閑散としたものだった。ほんのひと月まえまでの活気にあふれていた風景から思えば殺風景の観、胸にせまるものがあった。

 元気そうなのは、見張り番の小役人や足軽たちくらいなものだ。

 装いだけはものものしく、背をそっくり返らせて偉そうに辺りを睥睨している。彼らの、碧を値踏みするようないやらしい視線を意にも介さず、碧は岸の船着き場の前を通り過ぎた。野良着姿でうろうろしている娘を、下卑た笑みを口の端に浮かべてじろじろと眺めてくるのだが、彼女は彼らを横目で見ることすらしない。

 その女に気づいたのは、一里ばかりも川沿いを西へと歩いて帰って来た時だった。

 ちょうど、碧の草鞋の紐が緩んで、かがんで結びなおしていた時だから、ひょっとすると、なにか意図するところがあって、そっと近づいてきたのかもしれなかった。

 ちらりと見ると、その女――歳の頃は十九か二十だろうか、途方に暮れて思案に川面をみつめながら、はあ、はあ、と大きな溜め息をついている。

 碧は素知らぬ顔で紐を締めなおす。

「はあ」

 とまた、女は大きな溜め息をついた。それに加えて、

「こまったわ。どうしましょう」

 などと聞えよがしにつぶやくのだった。

 ――無視したほうがいい。

 碧の直感がそうささやいた。

 なかなか小綺麗な身形をしている。蜜柑色の小袖に締めた赤茶色の帯が鮮やかで、一見しただけでは、どこかの武家か大商人の女中のようである。器量はさほどでもないが、丸い顔に丸い眼を持っていて、愛嬌のある造作であった。

 紐を結びなおして立ち上がろうとする碧の耳に、また大きな溜め息が聞こえた。

「なにかお困りごとでしょうか?」

 こらえきれずに訊いてしまったのは、碧のお節介癖が理性を押し流した結果であった。

「まあ」とその女は眼を輝かし、合わせた手を顔の左右に振り振りし、「渡りに船とはよく云ったものですわ」

 などと、いささかずれた言葉を返すのだった。

 強引に引き寄せられた船に乗っていた碧としては眉をひそめざるをえないが、

「私でお力になれることでしたらいいのですが」

「ええ、ええ、きっとお力になれますわ」

 どうもこの女は言葉遣いがおおらかすぎるようだ。

 彼女は碧を風の当たらない土手の影に、袖をつまんでいざなって、

「いえ、本当にどうしようか困り果てておりましたの。このまま帰ったのでは、ご主人様に怒られてしまいます。ご主人様はふだんから、とってもお優しいかたなのですけれど、私がなにかそそうをしますと、ぴしゃりと厳しくお怒りになることが、たまにありますの。普段が優しい方でしょう、怒った時の落差といいますか、大変怖いんですのよ」

 碧は何も尋ねていないのに、ぺらぺらと喋りはじめるのだった。他人に自分の主を紹介するのに敬称はいらない気が碧にはするのだが、彼女はそんなことはまるでおかまいなしで話を続けた。

「ああ、申し遅れました。私、菜美と申します。どうぞお菜美と気楽にお呼びになって。そうそう、それで、ご主人様なんですが、わけあって、お名前は申せませんの。そのご主人様のお使いで大坂まで届け物に行かなくてはならないのですが、このようなものものしい様子でしょう。小舟一艘出すのもいけないと、あのお役人がいいますの。いじわるでしょう」

 菜美は碧に相槌を打つ暇もあたえないでまだ続ける。

 ここより北にある運河沿いの港で舟を探したのだがまったく見つからなかったので、途方に暮れて宇治川の河岸までとぼとぼと歩いてきたようだ。

「で、そのお姿から察しますに、あなた、この辺りのかたでございましょう。ぜひお知恵を拝借願いたいと思いますの。なにかこっそりと舟を出してくださる方などご存じないでしょうか。でなければ、まあ、場合によっては歩くのもしかたがないと思いますの、ですので、抜け道などをお教えくだされたり、ついでに……、実に勝手なお願いに聞こえますかもしれませんが、道中ご案内くだされば、なおいいのですが」

 まことに勝手なお願いである。

「困ったときはお互い様といいますでしょう、どうぞ是非、お力をおかしくださいませな、そうでないと、私……」

「しかし」と碧は彼女の長広舌の隙間に無理矢理押し入った。「そのお届け物とは、なんなのですか」

「ええ、書状ですの。三通ございますのですけれども、これを、大坂のさるお三方のもとへ届けなくてはなりませんの」

「今は合戦の真っ最中ですよ。いくさが終わるまでお待ちになるのが一番の良策の気がしますが」

「そうも参りませんの。その戦をとめるための書状を……」

 と云いかけて、しまったという顔で、お菜美は口に手を当てた。

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