六之二

 どうも聞き捨てにできない言葉を、この女中は口走ったようだ。

「ぜひ、お使いの内容をつまびらかにおっしゃってください。そうすれば、私としましても、お力になるのにやぶさかではないのですが」

「そうおっしゃられましても……」

「では、こちらから正体を申しますが、私はご公儀方のしのびで碧ともうします」

「し、忍、にんじゃ!?」

 お菜美は頓狂な声をあげた。

 検問所の見張りの武士たちがいっせいにこちらを向いたが、言葉そのものは聞き取れなかったと思いたい。

 また口に手をあてたお菜美は、

「やっぱり、ただ者ではないという気がしましたの。私の眼力に狂いはありませんでした」

 ということは、碧の挙措になにか特別なものを感じて、あのような演技をして近づいてきた、ということになる。彼女の慧眼の鋭敏なるを褒めるべきところなのかもしれないが、逆の見方をすれば、素人にただならぬ者だと感じさせた碧は、忍としての未熟さを露呈したことになる。

「ですので、ぜひすべてを包み隠さずおっしゃっていただきたいのです」

 菜美は、碧の顔を凝視したまま、固まったようになって、必死に何か考えを巡らしている様子であった。

「ううん」と菜美は唸った「徳川のかたとすれば、少なくとも二通は確実に届けていただけるでしょうし……、しかしもう一通も大事なものですので……」

 碧は焦れた。こんな時は、ちょっとゆさぶってやるにかぎる。

「でしたら、私はこれで」

 と脚を土手に向けて去りかけると、

「ああ、わかりました。碧さま、お願いいたします。どうぞ、私を大坂までお連れくださいまし」

 せっかく捕らえた獲物を逃すまいとでもするように、あわてて碧の袖をぎゅっとつかむのだった。


 ここでは詳細な話はしにくいので伏見の屋敷まで来てほしい、と云う碧に、のこのこついてくる菜美という女は、碧を信じきっているのか、ただの世間知らずなのか、ともかく、ふたりは城下の忍屋敷まで歩き始めた。

 道すがら、(菜美にしては)小声で詳細を語りはじめた。

「私のご主人様は、高台院こうだいいん様とおっしゃいますの」

 なんとっ、と声にだして叫んだわけではなかったが、碧は仰天する思いであった。

 高台院――。

 豊臣秀吉の正室北政所きたのまんどころ寧々ねねである。

 今は東山に建立した高台寺で亡夫の菩提を弔いつつ余生を送っている。

「そこで、女中として働いておりますの。お寺にご奉公していますのに、尼でないのは、おかしいとお思いになられるかもしれませんが、私、あのあたりの小間物屋の娘なんですが、お使いでお寺にお邪魔したとき、ご主人様に気に入っていただけまして、お仕えすることになりましたの。でも、ただの小間使いですから、ご主人様がわざわざ髪をおろすにはおよばないとおっしゃいまして」

 それから、寺での暮らしはどうだとか、その辺のお寺と訳が違うのでいろいろ大変だとか、いったいいつ息をしているのかわからないほど矢継ぎ早に喋り続けていたが、碧は完全にうわの空で聞き流していたのだった。

 なにせ、高台院である。話が大きすぎる。

 戦国武将で誰が最強か、などと酒のあてに盛り上がる男たちの会話を耳にしたことがあったが、碧はそのとき思ったものだ。

 戦国最強の武将が誰かなどは時と場合と論ずる人それぞれの感性によってことなるだろうが、戦国最強の女性となれば、

 ――北政所さまにちがいない。

 彼女の、他人に対する好悪のなさと、誰にでも優しく明るく接する性格は庶民に伝わるほど有名で、碧も憧憬を抱いていた。

 その花のような明朗さは、秀吉麾下の武将たちをことごとく魅了したほどで、太閤殿下よりも北政所様のためなら命はおしくない、と高言していた者もいるとかいないとか。大御所徳川家康も彼女に惚れているという噂さえあるほどである。

 しかし、今は寺に逼塞しているとはいえ、天下一の権力者の妻――ファーストレディーだった人である。

 その人の書いた書状でしかも戦の終結にかかわるということは、おのずと宛先も想像がつこうというものだ。

 ――これは、とんでもない拾い物をしてしまったかもしれない。

 碧は、いささか腰が引ける思いであった。

 宇治川から北上して伏見港にはいると、あちこちで喰いぶちにあぶれた人足たちがくだをまいている。町なかの空気は淀んで、なにかすえたような匂いが充満していた。

 茣蓙に置いた茶碗を数人が囲んで、なかへさいころを転がして博打を打っている者たちもいたし、長屋の壁にもたれて脚を投げ出して人生を諦めたように呆けている者もいたし、昼日中から酒をあおって千鳥足であるきながらなにかぶつぶつ云っている者もいた。

 いささか物騒な雰囲気に満ちた港を抜けて運河にかかる京橋を渡って行くと、欄干に背をもたせかけていた大柄な女が中程まで歩いて来、通せんぼするように立ちどまった。

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