五之八

 嵐は振り返った。

 振り返らずに石段を登るべきであったのに、好奇心からか恐怖からか、無意識に振り返ってしまった。

 そこには数十人の村人が、まげの切れた髪を振り乱し、青白い肌と生気のない眼と、力なく腕を前にのばして、皆が皆、一様に同じ姿勢をしながら、ひたひたと迫ってきていたのであった。

 嵐の背筋に、悪寒が走った。

 同じ格好をした数十人がじわりじわりと押し寄せてくる。

 この不気味さをなんと例えればいいだろう。

 直截に云えば、集団の恐怖である。

 人という生き物は、ひとりひとりはさほどでなくとも、多数集まれば恐怖を生む。相手に恐怖心を起こさせる。

 普通の人間でもそうなのに、今、後ろに押し寄せてくる者たちは、なにか魔物か怨霊に取りつかれたような人々だ。

 それに加えてそれぞれが腹に響くような唸り声を出している。

 地獄でもがき苦しむ餓鬼のような声音である。

 これまでに出会ったことのない、体験したことのない恐怖である。

 嵐は完全に腰が引ける思いに陥った。

 果心居士の課題がなくとも、彼ら村人たちがまだ生きているのだとしたら、嵐でなくとも、殴りとばして追い払うというのも躊躇してしまう。

 自然、および腰にならざるをえない。

 嵐はつむじ風のように振りかえると、石段を駆けあがった。

 二段飛ばし、三段飛ばしに、まるで鼬かなにかが崖を駆けのぼるように、数瞬の間に二、三百段はあろうかという石段を制覇して頂上に到達した。

 そこは十五間四方ほどの境内――と云うよりは広場といった雰囲気で、密集してはえている杉の樹木に囲まれて、陽当りが悪くて苔むして、陰気な山頂であった。

 その広場の反対側には幅五間ほどのやしろが立っている。

 嵐は石段の下を、しょうこりもなく振り返って見た。(もはや怖い物見たさにすぎない)

 村人たちは押し重なるようにして、鳥居の周囲に殺到していた。

 いったい今までこれほどの人数がどこに隠れていたのだろう。

 もう百人はゆうに超えた人々が、真っ黒い塊になって、石段のしたにひしめき合っていた。

 その最前列が石段を登り始めていた。

 潮が満ちていくように、ゆっくりと、しかし、威圧感と恐怖感を放出しながら、登ってくるのだった。

 手早くいつもの紺色の忍者着に着替えた嵐は、今後の対策を思案した。常々、思案などという概念すら頭の片隅に追いやっている彼女であるが、今回ばかりは思案せざるを得ない。 

 その土壇場に追い詰められて、惑いに沈む背に、

「彼らを殺さないほうがいい」

 かけられた声に、ぎょっとして振り向いた。

 いつの間にか、社のきざはしの上に、格子扉を背に男が立っていた。

 黒い頭巾フードのついた合羽をはおって、その頭巾を目深にかぶり、両手を臍の下あたりで握って、見覚えのある南蛮人が静かな眼差しでこちらを見つめている。

 頭巾でその南蛮然とした容姿を覆い隠しているつもりであろうが、しかし、その風変りな装いは、かえって周囲から際立たせていて、存在を誇示しているようだ。

「おまえ……、バテレンのパードレ!?」

 なにかこういう登場の仕方にこだわりがあるわけでもなかろうが、志摩のガレオン船ではじめて出会った時と同じ様子で、彼は高所から嵐をみおろしていた。

「もうバテレンでもパードレでもないのだが、まあ、そこはいいだろう」エミリオ・エンシーナはフードの奥でくつくつと笑ったようだ。「彼らはまだ生きている。殺すと後味が悪いぞ」

 嵐は奥歯を噛みしめた。

「あの時は、あたしたちの仲間をいいように操って殺させたくせに、今度は殺すなだと?」

 ガレオン船の甲板での苦い記憶はまだ彼女の記憶に、まったく薄らぐことなく鮮明に残っていて、たびたび脳裡に思い出されるのだ。この手で奪った同胞の、断末魔のうめき声や、首を折った時の感触まで鮮やかに。

 居士は誰も殺めるなと云ったが、こいつだけは別だろう。

 いや、居士に破門されたとしても、この悪徳に満ちた南蛮人だけは、是が非でも始末しておかねばならぬ。

「私に気を取られていて、いいのかな。ほら、後ろから村人が迫ってくるぞ」

 嵐はちらっと振り返って、横目で下方を見た。

 村人たちは、もう、階段の中ほどまでのぼってきている。

 確かに、今はエミリオよりも、村人たちの対処法に神経を注いだほうがよさそうだ。

「お前が、またおかしな術で、あの人たちを操っているのか?」

「いや、今回は傀儡の術は使っておらぬよ」そういうとエミリオはちょっと思案顔をしてから、「そうだな、ひとつ君に手がかりをあげよう」

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