五之七
ふいに、どこかで音がした。
風で戸板が揺れた時のような、ささいな物音であったが、確かに嵐の耳に聞こえたのだ。
今さっき通ってきた、二間ほどの幅の道の両側の、軒を寄せ合って並ぶ家屋の、そのどこかから、確実に聞こえたのだ。
嵐は集落の端で動きをとめて、耳を澄ませた。
その耳朶に触れる、どれほど小さな音でも、たとえ藁が畳に落ちるようなわずかな音でも聞き逃すまいと、神経を鼓膜に集中させる。
また、音がした。
やはり小さいけれど戸の軋むような音だ。
――右の……、三軒目か……。
そろり、そろりと、嵐はその家に向かって歩を進めた。
二間幅ほどの狭い前庭があって、入り口らしき戸の隙間から土間がのぞき見えた。
入り口から一間ほどの壁をはさんだところにある縁の雨戸は立てられていない。
縁側があって、八畳ほどの板の間があって、その向こうに六畳間、さらに向こうの戸も開け放しになっていて、裏にある段々畑の手入れされた土手が見える。
嵐は庭を横切って、その家の縁側に――行儀悪くも草鞋のまま踏みあがった。
踏む床がぎしぎしと音をたてる。
それとは別に、さらにまた戸板が軋む音が。
奥の六畳間の、左にある納戸らしき部屋から聞こえてきた。
足を忍ばせ、その閉められた戸に近づく。
嵐は、口内の、石のように固まった唾を、音をならして飲み込んだ。
この程度のことで普段、心を乱す女ではない。むしろ危険が目の前にあれば喜び勇んで脚を踏み入れる女である。
だが、この村に漂う異様な空気……。
いるはずなのにどこにいるのか見当もつかない妖魔、そして消えた村人。
嵐は、いつになく、全身を緊張でこわばらせていた。
手をのばし、引手にそっと指をかける。
恐る恐る、戸を引いた。
引いたその隙間はまだ五、六寸。
けたたましい叫び声とともに、漆黒の部屋から黒い塊が飛び出した。
怖いもの知らずのさすがの嵐も、鼓動を鳴らして身体をびくりと震わせた。震わせながらも、その影を眼で追ったのは、さすが討魔忍であった。
黒い塊は、裏口から飛び出して、土手を登って逃げて行った。
「猫か!?」
床を踏み割らんばかりに踏み鳴らし、腕を振って、上気し、乱れた呼吸のまま、溜まりに溜まった緊張を叩きつけるように叫んだ。
「上の猫婆さんのところにでも行ってろ、馬鹿猫!」
乱れた呼吸を整えつつ、嵐は入って来た縁側に振り向いた。
と、目の前に中年の百姓男がひとり。
嵐は悲鳴をあげた。
さすがに腹の底から恐怖で悲鳴をあげた。
男は生気のない眼で嵐を見つめ、ゆっくりと腕あげると、倒れ込むように嵐につかみかかってくる。
反射的に、殴り飛ばそうと腕を振り上げた嵐であったが、
――いっさいの殺生を禁ずる。
果心居士の言葉が脳裡をよぎった。
男の頬の紙一重で拳をとめた。
だが、男のほうは動きをとめない。前に伸ばした腕の、力なく垂れ下がった手のひらで、嵐の肩をつかもうとしてくるのだった。
嵐は後ろに飛びのいた。くるりと身体をまわすと、さっきの猫と同じ逃走経路をなぞるように逃げる。
六畳間から飛び出ると、両側から男がふたり飛び出してきた。
その両側から迫る腕の間をすりぬけて、土手を駆け上る。
そこは、大根畑であったが、そこにも三人の――男がふたりに女がひとり、丹精込めて作付けした野菜を踏みつけながら、ふらふらと嵐に迫ってくる。
後ろを振り向けば、さっきの三人が土手を這いずって登ってくる。
考える暇など、ない。
嵐は土手の端を蹴って、家の屋根に飛び乗った。
激しく走ると穴が開きそうな板屋根のうえを駆けて、家の反対側――嵐が入って来た縁側の前に飛び降りた。
すると、待ち構えていたように、右手から男が襲いかかる。
嵐はさらに逃げた。
家並みを抜けた所でも、十数人の村人が同時につかみかかってくる。
みな、全身の力が抜けているようにみえるのに、動きは素早い。
彼、彼女らの腕の間をかいくぐり、一散に走った。
とにかく、眼に入った鳥居を目指して走った。
鳥居をくぐると、そこには、何百段もありそうな長い石階段が杉林に囲まれて山の頂上まで伸びている。
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