四之十九(第四章完)
鶫は首をつかまれ、宙に浮いた格好で、必死に白狐の手首にしがみつき、かろうじて呼吸を続け、かすむその眼で祥馬の顔を見つめた。いつか短刀はその手から抜け落ちていた。
狐と同化した祥馬の眼は金色に光り、口の端を怒りで醜くゆがめ、荒い息を繰り返している。
そして、もう一方の手を、鶫の首へと、小刻みに震わせながら、ゆっくりとあてがってゆく。
だが……。
彼の手や指から、突然力が失われたように感じた。その手はまるで人形の手につかまれているように、喉にあてがわれているだけだった。ただ、そのぬくもりと皮膚を通して伝わる鼓動とが、彼が生き物であることを実感させているにすぎないのだった。
ああ、と祥馬は唸った。
狐の顔が――今まで憤怒にゆがんでいた顔が、一瞬の間に苦悶の表情へと変じた。
「できぬ。私にはできぬ。これほど憎いのに、これほど悔しいのに、私にはできぬ。この女を殺すことはできぬ」
ゆるんだその手から、するりと首が抜け、鶫は地に落ち尻もちをついて転がった。
祥馬は苦悶の相貌を両手で覆い、
「なぜだ、なぜ殺せないのだ」
身をよじらせ、もがくように肩をゆすり、嘆き続けている。
「よいのだ」
祥馬の嘆きに応じるように、男の低い声が池のほうから、ささやくように優しく聞こえてきた。
「それでよいのだ、祥馬よ」
祥馬は手をおろして、その声の主を見やった。
「鬼巌坊どの」
鶫もその男を見た。
その凝視を無視して、鬼巌坊は闇の中から、黒い墨染の
その時、屋敷のなかから、なにか叫びながら、いくばくかの人数が駆けでてくる足音が入り乱れるように鳴った。土御門修次郎が手柄を独り占めにせんとして、無音結界を張って、騒動が屋敷内に伝わらないように小細工をしていたのだったが、その修次郎が気絶したことで結界が解かれ、騒ぎに気付いた家人たちが起き出してきたのだ。
鬼巌坊は、錫杖で地をこんとひと突きする。紙縒りを切られた遊環が鳴り響き、その音が波紋のように広がって、なにがどうなったのか、近づいて来る人々が失神したように、ばたばたと倒れ込んだ。
そうして坊主は何事もなかったかのように顔を戻し、陰陽師に慈しむような眼を向ける。
祥馬は地に膝をつき手をつき、這いつくばって嗚咽する。
「私にはできない。この女の命を奪うことが、どうしてもできない」
「よいのだ」と、その肩に手を置いて鬼巌坊はつぶやいた。「かつて愛した女を、怒りにまかせて手にかける者など、我らの同志たる資格はない。……と恭之介ならば云うであろうな」
「恭之介様……」
その泣き顔が、だんだんと人の姿に戻っていく。
「祥馬!」
一声、立ち上がりかけた鶫に、
「さがれ小娘!」
鬼巌坊の一喝で、鶫の身体はまるで金縛りにあったように、微動だにできなくなった。
「お前は祥馬にふさわしくない」
侮蔑するように云って、坊主は、人の身体にもどり泣き続ける祥馬の肩を抱いて立ち上がらせた。
「行こう、祥馬」
「はい」
彼は名残りを振り払うように涙をぬぐう。跳ねた雫が、闇にきらめいた。
鬼巌坊は肩を抱いた手を放し、ひとつ頷くと、衣の裾をなびかせ、歩き去っていく。
彼の背を追うように祥馬もその身を翻した。
鶫を一顧だにせず脚を踏み出し、闇へ溶けて行く。
その足取りにもはや錯迷はなく、過去を捨て未来へ向けて進む、決然とした後ろ姿が眼にうつるばかりであった。
「待って、行かないで!」
鶫のその悲痛な叫びは、祥馬の耳に届いただろうか。
少女の声は、痛切な余響を残し、夜明け前の暗黒の、冷酷なまでに鋭く澄んだ空気の中へと滲んで消えていった。
鶫は、誰もいない部屋で、もう帰ることのないこの家の主人を想った。
闘いのあと、彼女はぼんやりと夢の世界を彷徨うように歩き続け、知らぬ間にこの家に来ていた。
円座にお尻を乗せて横座りに座って、床板に手をついて、ほうけたように黒ずんだ壁を見ていたが、しかし、その琥珀の瞳は何も見てはいなかった。
この部屋の空虚が、そのまま彼女の心を映しているような気がした。
もう彼は帰らない。
帰らないとわかった時、彼女は彼を愛していたのだとわかった。
それはあまりに遅い気づきであった。
もっと早く気づいていれば、あの時、去り行く祥馬を意地でも止められたのではなかろうか。真剣な想いを精一杯ぶつければ彼は振り向いてくれたのではなかろうか。
後悔ばかりが胸を締め付ける。
これが未練というものであろうか。
静寂のなかに、ただ抜け殻のような自分の存在だけが、寂しく孤影を描いていた。
小さな庭に北風が通り渡った。
女竹が揺れて葉がすれて、さわさわと騒ぎたてた。
西陽ばかりが眩しい。
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