三之十八(第三章完)

 碧は、大地をつかんだ。そしてその指を立て、ひたすら地面を掻いた。爪が割れ、指から剥がれても掻き続けた。しかしその肉体的な苦痛など、心の苦痛に比べれば、いかほどのものがあろうか。

 ――なんだ、あの男は。なんだ、なんなのだ。

 自分を袖にした女に対する、あの当てつけのような口づけはなんだ。

 あの人を見くだした酷薄な眼差しはなんだ。

 どうして私の心を踏みにじるような真似を平然とできるのだ。

 しかも、あの巫女は、三年前、と云った。三年もの間、内密に情事を重ねていながら、素知らぬ顔で私の許婚としてふるまっていたのか。

 そしてこの、私の心に湧き上がる感情はなんだ。

 あの巫女に対する嫉妬なのか。

 そんなはずはない。

 私はもうあの男に未練などないはずだ。

 我が師であり、我が心の父であった又左衛門殿を凶刃にかけられて以来、私はあの男を憎んでいたはずだ。

 憎悪と怨嗟に身を焦がして、いくつもの眠れぬ夜を過ごしたはずだ。

 なのに、なぜだ。

 なぜこんなに胸が、焼かれるように苦しいんだ――。

 碧は泣いた。泣いて、叫んだ。

 その慟哭は、どこまでも霧の中に響きわたるのだった。


 霧が、流れるように、すっと消えて行く。

 嵐と鬼巌坊の姿も、色鮮やかな大和絵のように、やがてくっきりと輪郭が描かれはじめてきた。

 お互いがお互いの出方をうかがい張り詰めていた緊張感が、ふと途切れたように、雲水が身体を立てる。

「こりゃいかん、時間切れじゃ」

 鬼巌坊は、大仰に慌てた様子で落ちた網代笠をひろって手早くかぶり、地に立てた錫杖を引き抜き、

「では、いずれまた、な」

 嵐に向かって、片目をつぶるのだった。

「おい、待て坊主。勝負はまだついてねえだろう」

「いやいや、このまま千日手を続けても、お互い疲労困憊を積み重ねた末に共倒れに倒れるだけだろうさ。ゆえに、勝負は後日、あらためて」

「ちぇっ」

 嵐はしぶしぶといった態で、全身の力を抜いた。

「次は、かならずやっつけてやるからな」

莫妄想まくもうぞう(妄想することなかれ)。想いにとらわれるな、ただ今を見よ、少女よ。色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき

「腐れ坊主が、何を偉そうに」

 ははは、と豪快な笑みでその侮蔑に答えて、雲水は後ろに跳躍し衣の袖をなびかせ、消えゆく霧と共に、まさに霧散するようにして消えていった。


 霧が消えてゆき、陽の光がまぶしく照りつけ、眼にしみるような青空が天に現れた。

 佐助はすがりつくように泣く、あぐりを抱き上げて、街道へと飛びあがり、鶫も後を追って、崖を駆け上がった。

 十五間ほど先の、道の真ん中で、碧がうなだれて立ちつくしていた。

 もう、涙は霧に洗い流したか、しかし、痛哭の余韻はまだ顔から消えず、暗く打ち沈んでいるのだった。

 その碧の向こうから、魂魄石の抜け落ちた兜を片手に嵐が小走りに駆け寄ってきて、鶫たちも、碧のもとへと歩み寄る。

 ただ、皆が皆、無言であった。

 霧が散じて広がる青空のした、彼、彼女らの周囲だけ、陰鬱の霧にまだ包まれているようでもあった。

 嵐だけは、悲しみとは無縁のようではあったが、しかし、宿敵と決着をつけられなかったもどかしさからか、眉根を寄せて、むずかしい顔をして皆の顔を眺めていた。

「帰ろう」

 佐助から身を離したあぐりが、つぶやくように云った。

「疲れた。今度は本当に疲れた」

「そうですね」

 佐助は、いつに似ず沈んだ表情の姫君を、いたわるように優しく云う。

「お屋敷に帰って、ゆっくり身体を休めることです」

「うむ、じゃ、おぶれ、佐助」

 あぐりは、佐助にしゃがむように手を振って云う。

 しかし佐助は、嫌な顔をするでもなく、柔和に微笑んで、腰を落とすのだった。

 四人の三つの影が、今まで歩いてきた道を、うちひしがれうなだれ、粛然と引き返していく。

 その頭上を、陰摩羅鬼おんもらきがきいきいと耳障りに鳴きながら、追い越して行った。

 彼らを憐れむように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る