三之十七

 霧の向こうから間断なく襲撃する触手たちを、碧は避け、斬り、また避ける。

 前後左右から同時に、何本もの触手が凄まじい速度で碧を狙う。

 両手の二刀を、風車のように旋回させる。それに吸い込まれるように触手が飛び込んできて、切断される。

 右手の暁星丸に付けられた魂魄石の律動が、碧の身体を通して伝導するため、左手の忍刀でも、触手をたやすく断ち切ることができた。

 だがしかし、とにかく見通しが悪いものだから、自分の反射神経を頼りに、触手の黒光りする先端が視界に入った瞬間に、身体を反応させなくてはいけない。

 襲い来る触手は果てがない。

 いくら斬り落としても、無限にはえてくるようで、斬るたびに飛び散る触手の赤黒い体液で地面をいくら染色しようとも、那由多と思えるほど無尽蔵に湧きいで襲来するのだった。

 碧は、肉体的な衰弱よりも、精神的な憔悴を感じていた。

 皮膚の表面には玉のような汗が噴き出していて、身体の躍動のたびに舞い散るそれは、まるで心から流れ出すようでさえあった。

 ――これはいけない。

 碧は焦慮にとらわれ始めた。

 圧倒的でさえある物量攻撃に、しだいしだいに追い詰められ、根負けしそうな気分であった。

 精神は心労と疲労によって変調をきたす。

 それは、旋律の律動の乱脈でもあった。

 振り降ろした暁星丸が、触手に食い込み、しかし切り裂かずに軟体質の物体に包まれ、不快な弾力とともに跳ね返された。

 さらに数本の触手が伸びる。

 両刀を振るう、だが、斬れない。

 それらの触手は、以前のように、両腕両脚と捕らえ、胴体を緊縛し、首を絞めあげる。

 身体は上空へと持ち上げられ、首と脚は反対に地面へと引っ張られ、腕は関節の限界をこえて曲げられ、二本の刀はすでに地面に落ちていて、碧は、身体を弓のように反らせ、弓弦を引き絞るように仰け反っていき、苦悶にうめくしかなかった。

 女の哄笑が轟く。

 巫女各務が霧の中から姿を現し、上から覆いかぶさるように静かに移動してきて、勝利をその手でつかもうとするかのごとく、ふところから懐剣を取り出し、鞘を払い、碧の反って天へ向けて突き出された胸へと静かに刃を下ろすのだった。

「わらわは、恭之介様にこの身を救われ三年、一心にあの方を想うて生きてきた。それを、そなたのような小娘が……、小娘が……」

 激した感情のせいで、喉がつまったように、語韻は乱れ、もはや言葉にならないのだった。

 その冷たい切っ先が、碧の襟元の皮膚に到達し、わずかに鮮血が鋼を濡らした時……、

「もうよい」

 いつの間にか、ふたりの横に立っていた男が静かに云った。

 紫がかった黒色の羽織と袴、漆黒の髪を束ね、白く美しく妖艶な相貌……。

「恭之介……」

 碧はうめくようにつぶやいた。

 海老のように反らせた無様な肢体を、かつての恋人であり、今の仇敵にさらし、惨めさに頬を赤く染めて。

「きょ、恭之介様……」

 驚愕する各務の懐刀を持つ手を、花神恭之介は、優しく、女のようなたおやかさで握り、ゆるやかに持ち上げる。

「もうよい、各務。目的は達した」

「し、しかし、この小娘、ここで始末しておかねば……」

「よいのだ、我が愛しい女」

 花神は、甘く囁くように云うと、各務の身体をその身に引き寄せた。

 そうして、背に腕を回し、彼女の心をいたわるように、口を重ねるのであった。

 その口づけは長く、舌を淫猥に絡み合わせ、卑猥な音を鳴らし、やがて各務は怒りに満ちていた表情を恍惚の表情へと変容させていった。

 そして、長い長い、舌と唇の愛撫の後、ふたりの顔は静かに離れる。その口唇の間に、蜘蛛の糸のように細く光る唾液のすじを引かせて。

 その白い糸を、碧は呆然と見つめた。緊縛の苦痛さえ忘れて見つめた。なにかこの世のものではない、別次元の物体のようにそれは見えたし、ついこの間まで許婚の間柄だった女の前で、別の女と唇を重ねるその男を、まったく信じられないその行為を、碧の眼はうつろに見つめた。

 各務の心が平静を取り戻すとともに、碧に絡みついていた触手たちが、いっせいに束縛を解いた。

 とたん、碧は無防備に受け身も取れずに、地面に墜落した。

 しかしその瞬間、彼女の心中はその激痛を凌駕するほどの赫怒が膨満していた。

 即座に身を起こし、片膝を立てて、

「恭之介っ!」

 上空に抱き合って浮かぶふたり、いや、ただひとりの男へと向けて腕をのばし、憎悪の限りを込めて叫んだ。

 地に落ちた暁星丸をつかみ、そのまま跳躍して、斬りかかろうと脚に力をこめる。

 瞬間、膝に激痛が走った。

 それでも立ち上がり、男の裾をつかまんばかりに腕を伸ばす。

 花神は、巫女の身体を抱き、巫女はその腕に身をあずけ、恍惚の笑みを浮かべていた。

 そして男は、ゆっくりと瞳を動かし、目尻の端で、碧を見た。

 まるで道端にころがる犬の汚物をみるように、冷酷な光を宿して。

 そして、ふたりは霧の中へと溶けるように消えていった。

 怒りに悶える少女を置き去りに……。

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