三之十六
「姫、姫」
ふいに、あぐりの耳元で、渋く深みのある男の声が聞こえた。
「だ、誰じゃ、佐助か?お、驚かそうとして、妙な声を出しても無駄じゃぞ」
云いながら、あぐりの声は恐怖で震えていた。
「恐れる必要はありません」
声は優しくささやくように云うのだった。
そして霧の中から男が姿を現した。
亜麻色の髪と髭、鼻梁はすっと通って高く、彫りの深い造作の、太い眉の下の蒼い瞳。黒いキャソックの胸には銀のロザリオが揺れている。
「なななな、南蛮人!?」
あぐりは大きな眼を、目尻が引き裂けるほど大きく見開いて、驚愕した。
話には聞いていたが、目の前に、生まれて初めて目の当たりにする、異人が立っている。彼女にとっては、山道で鬼に遭遇するよりも可能性の低い、現実世界ではあり得ない、お伽話のなかの出来事であった。
「ふふふ」と、南蛮人の神父は微笑んだ。「姫様、お気持ちを鎮めるのです。大きく息を吸って、ゆっくり吐くのです」
神父は、川の中に片膝を付き、あぐりに視線を合わせて、流暢な日本語で、静かに優しく囁くのだった。
「吸って、吐いて。吸って、吐いて……」
あぐりはその声に黙然と従っていた。
何度めかの深呼吸を終えると、彼女は我知らず神父の眼を凝視していた。その蒼い瞳を見つめていると、なぜだか穏やかな、気持ち良いほど澄みきった心持ちになるのであった。霧中にひとり彷徨う不安も、異人に遭遇した恐怖もすでに鎮静し、ただ穏やかに彼と見つめ合っていた。
「姫様、あなたは何か大切な物を持っていますね?」
「大切な……?」
「そう、けっしてなくしてはいけない、今一番大切な物」
「うん」
うなずいたあぐりの瞳は、瞳孔が開いたような、無機質な輝きであった。
そしてゆっくりと小さな手を帯に持っていき、小さな指をその間に差し入れると、白いお守り袋をつまんで引っぱり出した。
「さあ、それを私に」
あぐりはお守り袋を、神父の広げた大きな手のひらの上に乗せた。
刹那。
ぼっ、という燃焼音と共に、真っ赤な炎の閃光が、男の伸ばした腕に向けて走った。
神父は、だが、炎が袖を焦がす間もなく、後方に翻った。
姫と神父の間にできた一間の隙間に、怪鳥のごとく影が割って入り、
「生臭坊主の次は、転びバテレンか!」
煌々と燃える炎の刀を手にした佐助であった。
「まあ、転んだというより、堕ちたのだがね」
神父――エミリオ・エンシーナは、したり顔で云った。お守り袋の中身をそっと指で確かめながら、胸の内ポケットにしまって。
そこへ、頭上から数個の塊が降ってきた。
エミリオはそれが、濃霧の中でも見えていたように、まるで慌てもせずに身体を捻って躱す。
川面から顔を出していた岩に、十字手裏剣が当って、火花を散らして跳ね飛んだ。
さらにエミリオの左横に新たな山吹色の人影が、崖の上から飛び降りてきた。
その影――鶫は、すでに短刀を構えていて、着水して飛沫をあげるとともに、柄から分銅を飛ばした。
エミリオはそれすらも、すっと後ろに下がっただけで、まったく造作もなく軽く躱す。
「お前、まさか姫に妖術を使ったのか!?」
問い詰めるような激しさで問う鶫の脳裏には、あのガレオン船での一幕がよぎっていたのに違いない。
「私は、確かに堕ちた……、教義から堕落した男だ。されど、このようないたいけない少女を
そう云ってエミリオは顔の横で指をぱちりと鳴らす。
と、
「お、佐助ではないか、鶫殿も……。いかがしたのじゃ」
あぐりは、まるで現状を理解できていないようす。
「では、目的は達したので、失礼するよ」
エミリオは霧に溶けるように消えていく。
その影に佐助が火炎剣で斬りかかり、鶫が手裏剣を飛ばす。
だが、どちらの武器も、その軌跡は虚空を裂いただけであった。
「なんじゃ、どうしたのじゃ、わ、私はなにをしたのじゃ?」
あぐりの声は、絶望したように震えていた。とともに、催眠術にかかっていた間の記憶を、おぼろげながら思い出したに違いない、
「私はなぜあの男にお守りを渡してしまったのじゃ。あれには何が入っていたのじゃ、佐助?」
鶫も佐助も、彼女の憫然と打ちひしがれた姿をただ見つめるしかなく、自らの無力と未熟さに悄然とうなだれるしかなかった。
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