二之九
不安か、と鬼巌坊は云った。たしかに不安かもしれない、それを払いのけようと必死に声をだし、相手を威嚇し、自分の収縮していく心気を懸命に鼓舞しているのかもしれない。
しかし、何事もやってみなくてはわからない。
なにより、妖鬼相手に、武術の経験を積んできた自負もあった。人間離れした体格の大鬼も、強烈な
「得物は?」
鬼巌坊が網代笠を取りながら訊く。
「ない」
「ほう、徒手空拳か」
笠を取ったその頭は、顔をおおった無精髭同様、伸び放題の坊主頭で……。そうして、手にした錫杖を、地面に突き立てるのだった。
「おぬしが素手なら、わしも素手で闘わねば、無礼にして不遜極まりなし」
云って鬼巌坊は、胸の前で手を合わせた。そして、左の手のひらを緩く前に突き出し、右手を腰のあたりに、腰を落として身構える。
――妙な構えだ。
嵐も構えつつ、内心で動揺していた。あんな構えはいまだかつて目にしたことがない。
「少林拳……」
居士が、後ろを向いたままでぽつりと言った。
鬼巌坊の拳法のことであろう。
嵐にしてみれば、聞いたことがあるようなないような、
彼女の拳法は、拳法というより柔術である。
柔術というと、現代の柔道の原型のように感じられるが、それは加納治五郎が柔術を体系化してスポーツへと発展させたからであって、この頃の柔術は打撃技もあれば、武器を使うこともある。
侍が戦場で使う
云うなれば、暗闇で武器を持たずに、音もなく痕跡も残さず、相手の命を奪うための徒手武術である。
鬼巌坊のめくれた袖から、濃い体毛をした、鎧のような筋肉を持った腕が見えた。その肌からは、なにか壮年の、働き盛りの男がもつ濃厚な臭気のようなものが臭いたつようであった。
今、この正体不明の坊主と闘ってみたいという願望が嵐を突き動かしていた。相手が未知であればあるほど、強ければ強いほど、好奇心が刺激され、ある種の高揚感が背筋にぞくぞくと走るのだった。それは歓喜と云ってもあながち間違いではない。陶酔に近い歓喜であった。
嵐は、腰を落とし、爪先だけでじりじりと相手ににじり寄る。
鬼巌坊も同様に、脚も動かさず、身体の構えを崩すこともなく、静かに間合いを詰めてくる。
その距離、三間が二間に、二間が一間に……。
――間合いに入った。
思った瞬間、嵐の身体は動いていた。
右足を大きく踏み出しつつ、正拳突きを巨漢の顔面めがけて打ち込んだ。
が、その壮絶な速度と腕力で繰り出された
「あっ」
と嵐が思った時には、腹から背中に抜けるように、凄まじい衝撃が貫いていた。
鬼巌坊の掌底付きがみぞおちに入ったのだと彼女が理解した時には、その身体が五間も飛ばされ、雑草の生い茂る地面に背中をしたたかに打ちつけ、意識を失っていた。
嵐が目覚めたのは、もう日暮れ間近であった。
囲炉裏の間の、開け放たれたままの、縁側から冷たい微風が吹き込んできていた。
眼を開けると、碧と鶫がのぞきこんでいた。
がばっと上半身を起こし、だが、みぞおちに激痛が走り、すぐにまた身を横たえた。
「世話になったな」嵐はふたりにむけて云った。
「なによ、水臭い」碧は、いつもの嵐とはあまりかけはなれた神妙な態度に、苦笑するように云った。
「柄にもないこと云うんじゃないわ。あんたがしおらしいと、なんだか気味が悪いわ」鶫はその殊勝さの根幹にある無念さがわかっていながら、普段通りに嫌味を返した。
「おぬし、普段から鍛えておったのが幸いしたのう。普通の人間なら、臓物が潰れてぐちゃぐちゃに混ざっておったところじゃ」
囲炉裏の向こうから、果心居士が溜め息まじりに云った。
「あいつは……、あの坊主は?」
嵐はそれだけ喋るのが精一杯のように、小さな、かすれた声で居士に訊くのだった。
「帰ったよ、興が削がれたとかぬかしてな」居士は、少女の無謀さ加減を心底あきれた様子で云う。「あの浮浪坊主が気分屋でおぬし助かったの。己の気分よりも任務に忠実な者ならば、いまごろおぬしは息をしとるまいて」
嵐は、三人に顔を見られたくないとでもいうふうに、寝返りをうって壁に向いた。腹部にまた激痛が走った。
彼女のつりあがり気味の目尻から、つっとひとすじ涙がこぼれて床に落ちた。むろん、苦痛に耐えかねて涙を流すようなか弱い娘ではない。
くやしい。あまりにくやしい。そしてあまりに惨めだった。相手の力量をある程度見極めていたのに、自分でも制御できない驕慢と闘いたいという衝動に負けて無謀な決闘をした。そして無様に、大地に沈んだ。たった一撃で。
「あたしにも修行をつけてくれ……。つけてください。」
嵐は背を向けたまま、震える声で果心居士に懇願するのだった。
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