二之八
嵐はぎょっとして振り向いた。
その視界には畑の向こうに、真っ青な空を背景に、深い森林が広がっていたが、その枝葉の生い茂る薄暗い樹間から、まるで闇から湧いて出てくるように、ひとつの人影が浮きでた。そして悠然とした歩調で、空き地へと姿を現したのだった。
嵐は、驚倒した。驚倒せざるを得ないほどの痛恨事であった。
――まさか……。
あの雲水であった。
あり得ない、あり得るはずがない。だってそうだろう、完全にやりすごしたはずだ、撒いたはずだ――。
「いやいや、これは失敗。居士の娘さんだと知っていれば、ここまで案内してもらうんだった」
こちらに歩いてきながら、例の低音の大音声でそんなことを冗談ぽく楽しげに云うのだった。
嵐がついていた嘘をとうに見破っていながら、ずいぶん白々しいものである。
「おかげでずいぶん遠回りしてしまったじゃないか」
嵐はなにも言葉を返さなかった。頷きもしない、瞬きもしない。ただ、普段からちょっとつりあがり気味の眼の端を、さらに引きつりあげて雲水を睨んだ。睨みつづけた。
果心居士も何も言わない。どころか、碧が修行中の山を眺めている。
「ご高名な果心居士にお目にかかれて恐悦至極」
三間ほど離れた位置で立ちどまって、片手拝みに丁寧に頭をさげる。
居士は一顧だにしない。
雲水は、そばの囲いにいる白い動物をちらりとみて、
「ほう山羊か。これはめずらしい」
と隣家のかみさんと世間話でもするような気軽なようす。
「なんの用だ、糞坊主」
嵐はいつでも戦闘にはいれるように、両手に力をこめて肩をいからせて、全身に闘志をみなぎらせて、噛みつくような眼差しで云った。
「そう喧嘩腰では、ちと話しがしにくいではないか」
「ふん、すっとぼけても無駄だ。どうせ
「わかっているなら、訊かんでもよかろうに。ま、こちらとしても別段隠しておく必要もなし。そう、明察のとおり、花神恭之介に請われて暁星なる霊剣をいただきに参ったしだい。しかし……」
と雲水は網代笠を片手であげてまだらに剥げた山腹を眺めやり、驚嘆したように眼を剥いて、
「しかし、これもまた失敗。いささか遅きに失したようだ。碧という娘が霊剣を使いこなす前に手に入れろと、耳にたこができるほど、くどくどと云われておったに」
そして眼をほそめ、嵐にむけて視線をもどし、
「だからと云うて、手ぶらで帰るのも、こんな山奥まで来た甲斐がないというもの。物見遊山の土産話を聞かせたところで、あやつにあくびをさ出させるだけだろう。さて、どうしたものかなあ」
「心配することはないさ」嵐が不敵な笑みを浮かべて云う。「坊主、あんたはここで、あたしにぶっとばされておしまいだ」
「ははは、とすれば重畳。今ここで、美女に首へし折られて命脈尽きれば、煩悩解脱、これに勝るものはなかろうて」
「あんたの名前を聞きたいからさきに名乗ってやる。忍が名乗るのは珍しいから耳の穴をほじくってよく聞けよ。伊賀藤林衆、伊賀崎嵐だ」
「
「ずいぶん余裕だな。あたしは強いぞ。負けてから吠え面をかいたって、知らねえからな。いや、吠え面かく前に、冥土に行っちまってるかもな。あの世で閻魔大王に吠え面を見てもらうといい。なぐさめてくれるかもしれないぜ。けど安心しな、一瞬で終わらせてやる。坊主ごときが、戦闘の玄人相手に喧嘩を売ったのが大きな間違いだ」
「さっきよりずいぶん口数が多いではないか。不安は人を多弁にするというが……。そうか、不安か、わしと闘うのがそんなに不安なのか?」
「花神の手下ふぜいが偉そうにほざいてんじゃねえ」
「ははは、勝手に手下にされてしまっては、さして大きくもない我が自尊心が傷つくというもの。やつとは数年来の知己の間柄。まあ、ひょんなことで知り合って意気投合してな、気が向いたら互いの仕事の手伝いをしおうているまでよ」
と、この時、横にいて後ろを向いてたっている居士が、垂れ下がった眉毛を上げて、つぶやくように、云った。
「よせ、いまのおぬしでは歯が立つまい」
「ふん、やってみなくっちゃ、わからないだろう」
「おぬしらは、三人でやっと一人前。半人前、いや三分の一人前のおぬしがかなう相手ではないぞ」
「そういやあ、乳女はどこにいった?」
「川に洗濯、じゃ」
「まったく、役に立つのは乳だけか」
嵐は舌打ちをした。鶫に対してではなく、自分自身に対して。
居士に忠告されるまでもない。目の前にいる鬼巌坊という坊主は、ただ者ではないと、嵐はとっくに看破していた。だが、あの時、藤林屋敷で花神から湧き上がっていたような、おぞましい妖気は感じない。なにか、修練に修練を重ねた武術の達人のような、眼では見えない鬼気のようなものだけが、ぴりぴりと嵐の肌を刺激する。
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