二之七
おそらく、全速力で走りだせば、あっけなく引き離すことができるだろう。しかし、そんな常人離れした速度で突っ走れば、自分が忍者であると大声で公言するようなものである。この雲水がただの雲水ならば、狐に化かされた、くらいの話で終わるだろう。だが、そうでなければ……。
嵐はあまり頭脳を回すのが得意ではない。ともすれば、藤林衆の中でもぬきんでた腕力と運動神経で、たいがいのことは乗り切ってきた。何かと云うと策略めいた知恵で物事に対処しようとする鶫とは正反対で、彼女からはいつも、あんたは考えるより先に身体が動く、ひとつ先のことを考えろと苦言を呈されるのだ。
左は色づき始めた樹木が生い茂り、右は切り立った崖で、その下には
その流れを目にして、ふいに、なんの脈絡もなしに、
――糞尿は垂れ流せ。
と碧に云った果心居士の言葉が脳裡に浮かんだ。
なぜこんな時に、とは思うのだが、人間の思考などはそんなものであろう。
しかし嵐は、その一言から着想を得た。
ああ、いい思いつきだ、と嵐は内心ほくそえんだくらいのひらめきだ。
「じゃあ、坊さん、ここまでで」嵐は唐突に脚を止めて、雲水に別れをつげた。
「なぜ、峠はもうちょっと先だろう」
「いや、小便がしたくなったから」
雲水は、笑った。山腹にこだまが何度もいったりきたりするほど、大声で笑うのだ。たしかに、歳頃の娘の口からもれでる語句ではない。
「これは失敬。では俺はお先に行くとしよう」
雲水は笑いを噛み殺しながら、――噛み殺しきれずに、去っていった。
嵐はその背をみつめて、ふっと吐息をひとつ。
すぐに、遠ざかる雲水の耳にも聞こえるように、わざと騒がしく音をたてながら、左手の山林の中へ飛び込んでいった。あたかも本当に膀胱が我慢の限界をつげているかのごとく、一散に飛び込んだのだった。
そして、木の幹にぴったりと身体を寄せて、雲水が遠のくまで様子をうかがい、さらに念のため、木の間隠れに、後をつけたのだった。落ち葉が樹下につもっているにもかかわらず、足音を一切立てずに、である。
雲水は、まったく気づいていない。
ときどき立ち止まって、景色をうっとりとしたようすで眺めていたりする。深まりゆく秋の遷移を描画したような、赤や黄色に彩られはじめた景色を堪能しているようすであった。しかし、一度たりとも後ろを振り返ることはなかった。
半里ほども尾行しただろうか。
もういいだろうと見極めて、来た道を引き返した。
庵への小道はとうに過ぎてしまっていた。
あの雲水が敵の間者か刺客なのではないかという疑念は、たんなる思い過ごしだったようだ。がらにもなく神経質になっているのかもしれない。このところ、意外過ぎる事案が続いていたから、なにか疑心暗鬼にでも取りつかれていたのだろう。しかし、
――やっぱり、軽薄な男は好きになれないな。
雲水の間断なく投げかけられた質問の数々に、まったく閉口した。よくもまあ、ああもぺらぺらと口が回るものだ――。
そんなことを考えながらも、念には念を入れて、後ろから追跡されていないか、神経を研ぎ澄ませて確認しつづけて、庵までの樹間を小走りに走った。そのあたりの気配りは、粗雑にみえても、やはり忍者としての修行を積み重ねた娘であった。
庵に到着すると、果心居士が向こうの山腹をながめて、なにかため息をついている。
嵐も居士の視線のさきを眺めやった。
碧がずいぶん派手に樹々を斬り倒したものらしい。
緑でうもれるような景色だったのに、今ではもう、茶色い地面がまだらに見えてしまっている。
「おい、たのんでおいたもんは、持ってきたか」
嵐は気配を消して近づいたつもりだったのに、居士は山に目線を向けたままで、云うのだった。
その横柄なもの云いに、嵐はちょっとむっとした。
返事もせずに、腰にぶら下げていた一升徳利を、いきなり投げつけてやった。
それでも老人は振り返らずに、手を伸ばして徳利を左手で受けとめたのであった。
そして平然としたようすで栓を抜いて、酒を呑み始めた。
ぐびりぐびりと、一間離れた嵐の耳に聞こえるほどの音をたてて、――後ろ姿なのだが、うまそうに呑むのだ。
その辺の安いどぶろくでないことはたしかで、嵐が藤林長門に居士の要望を伝えると、妹の修行代として、しぶしぶ、と云った態で秘蔵の清酒を蔵から出してきたものであった。
「ううん、なかなかじゃわい」
居士は藜の杖をもった右手の甲で、唇をじゅるりと拭った。
そして唐突に、嵐を髪と髯に埋もれた眼でぎょろりと睨んで云った。
「ばかもんが。つけられおってからに」
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