一之十八(第一章完)
さきほどまで左腕だけを覆っていた花神の瘴気は、すでに全身に広がっていて、まるで
ふたりの距離が二間ほどに近づいた。
と、碧の脚が地面を蹴った。
花神へと跳躍した碧は、暁星丸を、真っ向から斬り下げた。
瘴気をなびかせながら後ろへ飛んで躱した花神であったが、くっとわずかにうめいた。
左胸から右の脇腹へかけて、黒い着物がばっさりと斬り裂かれていた。
長門が振るっても、素肌に傷ひとつ付けられなかった暁星丸が、花神の全身に纏った瘴気の障壁を破り、着物を裂き、肌を斬った。
だが、浅い。
流れ出た血は、着物をわずかに
驚愕と怒りに端正な顔をゆがめ、花神が碧を睨む。
碧は、ふたたび跳んだ。
薙いだ暁星丸は、しかし、虚空を斬った。
碧は逃げた標的を目で追った。
花神は宙に浮いている。燃え盛る炎を背に、墨痕のごとき黒影を纏い。
見上げる碧に、花神は、もとの、微笑を含んだ相貌に戻り、
「お前は必ずもどる、私の腕の中へ……」
囁くように云った。
碧はその言葉に言葉を返さなかった。割れんばかりに歯を噛みしめ、手のひらに血が滲むほど両手を握りしめ、顎を震わせ、肩を震わせ、憎しみに揺れる瞳で恭之介の瞳を睨みつづけた。
恭之介が微笑んだように見えた。
刹那、その身体がふっと消えた。霞のように。
碧はちょっとの間、魂が抜けたたように茫然自失の態で立ち竦んで、恋人の――、もと恋人の消えた虚空を見つめていた。
そして、振り向いた。
自分の感傷よりも大切な人を。
碧は倒れてあえいでいる、又左衛門のそばに膝をついた。
「父上……」
自然にそう呼んでいた。
又左衛門は、精一杯の笑みを作ってそれに答えた。
「すぐに医師がかけつけます。ですから、がんばって」
「いいのです、姫、それがしは、もう」
「だめです、いけません、あきらめてはいけません」
碧の声はしだいに涙で湿り気を帯び始めていた。そして、死にゆく老人の頭を、そっとその膝のうえにのせるのだった。
「生きてください。私はまだ、あなたになにも恩返しをしていません。ですから」
「いいのだ、あおい……、もう……」
又左衛門の眼が、我が子のように慈しんだ娘の泣き顔を瞳にうつしながら、そっととじられていった。
碧は彼の頭を抱きしめ、自らの頬をすりよせた。彼女の眼から流れる涙はとめどなく、老人の皺のよった頬を濡らしていく。
嵐も泣いていた。
鶫も泣いていた。
いつも気丈な娘も、いつも冷静な娘も、こらえきれない涙が頬をつたって流れ落ちていく。
周囲の者たちも、うなだれ、肩をおとし、うつむき、嗚咽し、亡くなった者の大きさに、悲嘆の中にうち沈んでいた。
燃え盛る社の梁が音をたてて崩れ落ちた。
少女たちの哭声と社の焼ける音響が入り混じる。
碧は夜空を振り仰いだ。
「恭之介っ」
叫んだ。天空をつらぬかんほどの怒りのままに叫んだ。
天帝がおわすならこの嘆きの声を聴きとどけよ、我が怒りを悲しみを受けとめよ――。
「恭之介ぇっ!」
怨憎の叫声が、立ち昇る黒煙とともに、宵闇のしじまのなかに消えていく。
星が流れる。
いちばん星を貫くように。
いちばん星はまたたく。
少女たちを憐れむように。
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