一之十七

 もうすっかり陽の暮れてしまった道を、碧たち三人は、馬を走らせていた。

 走らせていると云っても速足程度で、さほどの速度は出していない。暗くなって見通しがきかないことも理由のひとつではあるのだが……。

 碧は、ふうっと溜め息をついた。気が重かった。

 花神恭之介について、どう報告すればよいのか――。

 はたして本当に彼が裏切ったのか。それとも、あの奇妙な神父のでまかせなのか。

 兄にどう説明したらいいのだろうか、まるでわからない。

 なので、嫌な案件を先延ばしにすべく、志摩の海岸からの帰り道も馬を急がせなかったし、津の屋敷でも小杉平兵衛の好意に甘えて、ゆっくりと身体を休めてきた。

 それで、陽のあるうちに帰参するつもりが、いつしかもう辺りは宵闇が覆ってしまっていた。

 と……。

 五町はまだあるだろう、遠く小さく薄ぼんやりと見える藤林屋敷の土蔵の上に、火の玉があがった。

 なんだろう、と眼を細めて、碧たちは屋敷を凝視した。

 さらにもう一度。

 馬に揺られた視界の中でも、はっきりとそれとわかる発火の輝きであった。

 碧は、鶫と嵐に目くばせをした。

 ふたりはうなずく。

 手綱を打って馬の速度をあげた。

 碧の動悸が急激に高鳴る。何が起きているのか、どんな事態が待ち受けているのか、まるで想像もできなかったが、ただ不安ばかりが潮騒のように胸の中でさざめくのだった。

 騎乗のまま、まだ閉じられていなかった門へと矢のように飛び込み、鞍から飛び降りる。

 ちょうど土蔵の方へ走っていこうとしていた下男が、三人をみとめて走り寄ってきた。

「碧様」

 すがるように名を呼ぶ下男に、碧は手綱をあずけると、

「何があったの?」

 急くように訊いた。しかし、

「わしも、いま様子を見に行くところでしたので」

 慌てた様子で答えただけであった。

 碧はうなずいて、土蔵のほうへと急いだ。嵐と鶫も続いた。

 また凄まじい火炎が轟々と燃えあがった。

 母屋の端に、騒ぎを察した屋敷の使用人たちが十人ばかり集まっていた。しかし、彼らは訓練をつんだ忍ではない。戦闘に加われるものでもなかった。なすすべなく、ただ呆然と成り行きを見守ることしかできない。

 その無力な人たちをかき分けるようにして、碧は進んだ。

 人垣を抜け、広がったその視界には……。

 ひとつの影が、ひとつの影を斬り、もうひとつの影へと刃を向けた。

 と、一本の刀がきらりと閃いてこちらへ飛んでくる。

 宝刀暁星丸が、彼女の足元の地面へ、突き刺さった。

 それらがすべて碧の眼に、スローモーションのようにゆっくりと、音もなく、ただ彼女の思考回路がすべてを洞察し理解するまでの数瞬が、長く、長く、流れていくのだった。

 碧は、驚愕と、そして憎悪とが瞬時に心に湧き上がってしてくるのを感じていた。

 あの神父の云っていたことは、真実だったとわかった。その後に碧が持ち続けた危惧が現実に起きたのだと悟った。

「恭之介っ!」

 彼女は叫んだ。全身を焼き焦がさんばかりの憤怒と、胸を掻きむしりたくなるほどの憤懣を、相手に叩きつけるようにして叫んだ。

「何をしている、恭之介っ!」

 業火弾の炎が燃えついてしまったのだろう、社が一気に炎をあげた。

 斬られ、倒れているのは、加瀬又左衛門。兄の長門は花神の攻撃を避けて態勢をくずしてしまい、無様に尻もちをついていた。

 それらが炎を背に、影絵のように、幻影のように碧の眼にうつるのだった。

 花神は、すっと刀を下げた。悠然とした調子で背をのばし、碧に顔を向ける。ゆっくり、じらすようにゆっくり。

 そして薄く笑みを浮かべ、左手を、そっと顔の前にあげ、道に迷う子供を導くように、優しく柔らかくさしのべるのだった。

「碧……」

 花神の笑みは、おだやかで、しかし冷酷であった。

「さあ、私のもとへ来い、碧。その暁星丸と共に」

 碧は、全身が震えていた。震える手で、足元に突き立った小太刀を掴む。

 するりと地面から引き抜くと、花神に向けて歩き出した。

「来るな、碧!」長門が叫ぶ。

「行くな!」嵐がとめる。

「戻って!」鶫が呼ぶ。

 だが碧は、脚を進めた。

 その目は怒りに満ちているようでもあり、運命にあらがおうとする強い意志がみなぎっているようでもあった。しかしその脚は、愛する人の手まねきに、糸で引かれるように無心に歩んでいるようでもあった。抗いようのない誘惑に身をまかせるように……。

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