Ⅱ-3 マーブルカラー・プレゼント
対話のマーブル
翌週土曜日の朝、スイートラジオに行くと、茂樹くんに50代前半くらいの女が頭を下げていた。
「……なぜ急に戻ってきたんですか?」
「店長、すみませんでした。本当に申し訳ない」
「顔を上げてください。僕はあなたに何も言っていません。なのになぜ急に頭を下げにきたんですか?」
「知ってしまったんです、あの時店長が正しかったことを。店長はきちんと店のことと私たちのことを考え、ずっと先を見ていたのに、私たちはそれを汲み取れなかった。本当に申し訳ないことをしてしまいました」
「どこから知ったんですか?」
「ヒシマキの担当者が言ってたんです」
「なるほど……わかりました。あなた達を許しましょう」
「またここで働いてもいいですか?」
「ええ。履歴書を持ってきていただければいつでも採用します。ところでヒシマキは何がしたいか、わかりますか?」
「スイートラジオの持っているチョコレート関係の技術を抜き取ろうとしているようです。向こうの企画書の写真を撮ってきたのですが……」
そう言うと、女は茂樹くんにスマホを見せた。茂樹くんの表情が固まる。
「やはり……そういうことでしたか」
「ちょっと待って、何があったの」
「聞いてたとおりだよ」
茂樹くんは店の奥に入っていった。そして一時間後に出てきたときには封筒を持っていた。
「これを……本契約変更の要望を投函してきます」
茂樹くんはそう言うと、外に駆け出していった。
「はじめまして。田中良子といいます。以前スイートラジオで働いていた者です」
女は私に頭を下げた。
「はじめまして、小林優花です」
「優花さんは今、どんな仕事をしてるの?」
「本業は部品製造業者の営業部社員で、副業としてスイートラジオで働いてます」
「もしかしてレビューに返信してたのは優花さん?」
「はい」
「もちろん私が書いたあのレビューは消しとくわ」
「ありがとうございます」
「で、店長はまだ戻ってこないの?」
「多分もうそろそろ戻ってくる頃かと思います」
「ああ、タメで良いわよ」
「はい」
「少し、私のことを話しても良いかしら」
「いいですよ」
「私ね、7年前にここをやめてからずっと主婦業に専念してきたの。子育てが一段落してからは、毎日キッチンと物干し場とアイロン台と洗濯機の間を往復する忙しい日々だった。それでも、旦那のために働いてたから苦じゃなかった。あんなのを苦にする人って、どんな神経してるんでしょうね。でも最近旦那が単身赴任で東京に行っちゃって、主婦業をする必要性がなくなった。暇な日々の中で、ヒシマキから書面が届いたの」
「それでヒシマキに私たちの情報を流そうとした、と……」
「ええ。それで、ある日ヒシマキの担当者と話してたら担当者が言った。『スイートラジオの協力は、私たちの長年の悲願ですからね』って。それからもらった書類を見て、色々とつながったわ。私が間違ってたんだって気づいたの。あの頃の間違いを二度と繰り返したくはない」
「なるほど」
「ところでいつ僕に気づいてくれるんでしょうか」
「いつの間に帰ってきたの?」
「さっき」
「すみません、履歴書は持ってきてあります」
「受け取らせていただきますね」
茂樹くんはそう言うと、履歴書を受け取った。
「ほう……一度入院されたんですね。持病ですか?」
「……?」
「いや、手術歴と入院歴にマルがついているので……」
「交通事故で左の膝を粉砕骨折したんです」
「なるほど、それは災難でしたね」
「もう何も問題ないので大丈夫です」
「もちろん。そんな様子はありませんでしたからね。採用です」
「早いですね」
「まぁ問題ないですからね。正しく認識を改めた人に昔のミスをグダグダ言い続けるのは非合理です。信じてますからね」
「すみません、ありがとうございます」
「謝る必要はないですよ」
私はそれを見ながら、明日に迫った日曜日について頭の中で考えを巡らせていた。
「田中さん」
茂樹くんが田中さんを呼んでいる。茂樹くんは黒いボールペンを持ってきた。
「田中さんの忘れ物だ」
茂樹くんはそう言って、そのペンを無造作にペン立てに突っ込んだ。私は何か違和感を覚えたが、そんなことは明日のことにくらべればどうでも良いと判断した。
「明日……」
「それは外で話そうか」
茂樹くんはそう言って、私を外に連れ出した。
「明日魚村さんと話してくるよ」
「そうか……多分良いことが聞けるね」
茂樹くんはそう言って、帰っていく私を見送った。
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