掃除のビーントゥバー

 朝一番にスイートラジオに向かうと、茂樹くんが待っていた。

「おまたせ」

「掃除道具持ってきたよ」

「ありがとう」

「今日は定休日だったよね」

「うん」

 茂樹くんの案内で居住スペースに足を踏み入れると、床には黒いロウをこぼしたような大きなシミがついていた。

「……なにこれ」

「ああ、洗剤こぼしちゃって」

「何ヶ月放置したの」

「約1年」

「へ?」

「使ってなかったから……」

「わかった。何使えばいい?タイルだからクレンザー?」

「クレンザーじゃなくてもたぶん洗剤は水溶性だから……水をまいてから重曹をかければ取れると思うよ」

「へえ……」

「ある?」

「重曹はない」

「実はここにあるんだよ」

「なら言ってよ」

「いや、昨日見つけたんだ」

「なんで『見つけた』なの」

「かなり前に買ったからね」

「なるほど……じゃなくて、買ったものはちゃんと整理してよ」

「しまい込んじゃったんだよ」

「……」

「呆れないで」

「はいはい」

「で、霧吹きで水をかけて1時間放置だね」

「ふやかすんだね」

「そうそう」

「ところで何時間ぐらいかかるの」

「たぶん午後7時までやっても床の半分もきれいにならないだろうね」

「ええ……」

「大丈夫、残りは僕がやっとくから」

「じゃあ今日やっても意味なくない?」

「あるよ、4日分の仕事が3日分の仕事になるから」

「……昭和の企業みたいなこと言うね」

「そんなことないよ、能率面から言えば事実だし」

「……やろうか」

 私たちは洗剤のシミの上に水をかけて、さらにぞうきんで擦った。ぞうきんで擦っても、表面の黒いホコリしか取れない。

「まあ1時間もすればふやけるから、重曹を水に溶かしたものをかけてウェットシートで擦れば落ちると思うよ」

 茂樹くんは言うが、私は少し心配だった。ウェットシートが足りなくなるかもしれないと思ったのだ。

「他に掃除するところってある?」

「ああ、ここの天井もなかなかだね。何度も言うけどここは使ってなかったから」

「じゃあ天井を……」

 私が丸椅子を取ると、茂樹くんが慌てて言った。

「椅子は置かないで」

「なんで」

「滑るから」

「そうか……どうする?」

「天井は小さいモップで擦ってやれば良いと思うよ」

「はいはい」

 茂樹くんは長い棒の先にホコリ取りモップをつけた道具を2つ即席で作って、一方を私に渡した。

「これで拭こうか」

「おっけ」

 私たちは天井掃除の間、一言も発さないほど作業に集中していた。マスク越しにも、ホコリと砂のような臭いが感じられるようになった頃、茂樹くんが悲鳴を上げた。

「うわあああ」

「どうしたの?」

 茂樹くんの方を見ると、茂樹くんはひっくり返っていた。

「いやどうしたの」

「洗剤のシミに足を踏み入れちゃって」

「滑るからとか言ってたのに自分から滑るんだ……」

「呆れた目で見ないで……」

「そろそろ1時間ぐらい?」

「そうだね」

「じゃあ重曹を用意しようか」

「はいはい」

 私たちは重曹を水に溶かしたものをしみこませたウェットシートを使い、床のシミを擦った。

「これで落ちるね」

 茂樹くんが確認して言った。ウェットシートを押さえる手に力を込めて床を擦ると、少し泡立った黒いものがシートにべっとりとついた。

「ひええ……汚い」

「まあこれが取れたらきれいになるんだから」

「そうだけどさ」

「じゃあぐいぐい汚れにアタックしていこう」

「ほいほい」

 私たちはまた無言で、しばらく汚れを取っていた。4時間くらいおなかが空くのも忘れて懸命に床のシミを擦り落として、ふと見るとゴミ箱には山のようなウェットシートが積もっていた。

「これって産廃になるのかな」

「ならないんじゃないかな」

「ならないんだ……」

「住居兼店舗だからね」

「なるほど」

 2袋目のウェットシートを開け、シートを取り出す。床のシミを擦って描いたネコが、こっちを見ている。

「何やってるん……って可愛いな」

 気づけば茂樹くんがネコを見て、スマホを取り出していた。写真を撮る茂樹くんのスマホのレンズに映り込もうと、私はさっとピースを出す。茂樹くんは写真を撮り終えると、私に聞いた。

「優花さん、高校では部活って何やってた?」

「ああ、漫研で絵とか描いてた」

「吹奏楽部じゃなかったんだ」

「うん。中学でやめた」

 3袋目のウェットシートが空になったのは、午後4時のことだった。4袋目を開けようとする私に、茂樹くんが声をかけた。

「おやつにしようか」

「そうだね」

 私たちは手を入念に洗い、茂樹くんが冷蔵庫から取り出したチョコレートをつかんで口に運んだ。

「うまい」

「自画自賛……」

「まあまあ。美味しいでしょ?」

「美味しい」

「なら僕が美味しいと言っても問題はない」

「そうだね」

「そもそもこれは試作品だからね」

「そうなんだ」

「これは仮称アーモンドバターチョコレート。ピーナツバターのピーナツの代わりにアーモンドを使って、それを練り込んだチョコレートなんだ」

「いいね……チョコレートのカカオとは違う甘さも感じる」

「これまでスイートラジオが出していたチョコレートとはまた違うおいしさを持ってるからね」

「アーモンドとバターの旨味っていうか……これまでとは違った意味で濃厚だよね」

「でしょ?これは400グラム、つまり大体20個で990円にするつもり」

「税込み?」

「もちろん」

「安いね」

「新しい看板商品にしていこうと思って」

「そういえばこの前のプレーンビターチョコレートの件なんだけど」

「ああ、早めにサンプルがほしいね」

「この部屋に住むようになったら持ってくるよ」

「ありがとう」

 掃除が終わる頃には、シミは3分の1ほどになっていた。

「予想より進んだので万々歳だよ。また明日」

「また明日」

 私はヘトヘトの体で家に帰った。解約の電話を昨日淹れたばかりのアパートの部屋は、妙に狭く感じた。

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