はじまりのチョコレートポット
スイートラジオに着くと、茂樹くんはシャッターにもたれかかって立っていた。
「早いですね」
「それ茂樹くんが言う?」
「大丈夫ですよ、僕は3分前に来たばかりです」
「3分前って」
「今は7時53分です。誤差の範囲ですね」
「…まぁいいや、話したいことって何?」
「スイートラジオは、12月20日から営業を再開します。当日は1000箱限定の特別バロタンに入ったハイミルクチョコレートを販売する予定です」
「早いね」
「本来一ヶ月で終わるリフォームですから当然です」
「ごめん」
「別にいいですよ。それで、あなたにはまた土日だけ働いてほしいんです」
「わかった」
「いいんですか?」
「もちろん」
うなずいて顔を上げたとき、茂樹くんの胸ポケットからいつものメガネが消えているのに気づいた。
「メガネは?朝早いから忘れたの?」
「いえ、もう持たないことにしたんです」
「なんで」
「もう、子供じゃありませんから」
「どういうこと?」
「……そのままの意味ですよ」
「ちょっと、目をつむってくれる?」
「どうしてですか」
「ちょっと渡すものがあるんだ」
「何でしょう」
茂樹くんが目をつむる。私は鞄から時計を取り出した。
「どうぞ」
「目を開けてもいいですか?」
「いいよ」
「包みも開けていいんですかね」
「うん」
茂樹くんが丁寧な手つきでセロハンテープを切る。包装紙の内側から鎌とハンマーのステッカーが貼られた箱が出てきたとき、茂樹くんの目は急激に輝きはじめた。
「おお…!」
茂樹くんの頭の中では、中学の頃に歌っていたロシア国歌やソ連国歌などが流れているのだろうか。茂樹くんからは鼻唄が聞こえてくる。聞き覚えのあるフレーズだと思ったが、まったく知らない歌だった。
「お……!」
茂樹くんが感嘆の声を上げる。私は心の中で中島さんにお礼を言っていた。
「おお……これはすごいですね」
「そうでしょ?」
茂樹くんはロシア語の書かれた紙袋に興奮しているようだった。そして茂樹くんは、ボストークを取り出した。
「これは……!」
「どう?」
「ありがとうございます!チョコレートの再現、頑張ります!」
「良かった……もう持ってるかと思ったよ」
「持ってません。ですが、プレゼントはある意味賭けですね」
「もらっておいてそれ言う?」
「いえ、あくまで感想です」
「なにそれ」
「僕もあなたに渡そうと思っていたものがあるのですが、よく考えたら時期尚早だったので……」
「どういうこと」
「まあ、うまくいけばそのうちにわかりますよ。そういえばチョコレートがカレーを美味しくするのは有名な話ですよね」
「うん」
「普通のカレーに入れるなら冬のチョコレートの方が良いですが、カレーグラタンに入れるカレーなら夏のチョコレートの方が良いんですよ」
「それはどうして?」
「日本の夏というのは本来チョコレートを保存するには不向きな環境なので、夏のチョコレートには溶けにくくするために特殊な油が入っているんです。うちのものにも少し入っていますが、メーカーのものは大量生産の都合上うちのものとは違って融点が高いだけの特別な油なのであまり口溶けが良くないのです。しかし、かなり高温になると焼色がこんがりつくので、グラタンの材料には適している……というわけです。今度試して見てはいかがですか?ちなみに現在売られているチョコレートは同じ種類でも夏仕様と冬仕様の2つが混在しているんですよ」
茂樹くんは早口で語った。私は茂樹くんの発言の意味を取るのに苦労したが、なんとか解読した気になった。
「へぇ……すごいね」
「ありがとうございます。チョコレートはかなり奥が深い世界ですよ」
「未だに簡単なはずのレシピが再現できないもんね」
「ええ」
「朝ごはん食べたの?」
「もちろんです。今朝は豆腐一丁と味噌汁、そしてご飯ですね」
「すごいね……さすが料理人」
「どうしたんです?」
「私、料理は無理なんだよ」
「どうしてですか?」
「まずめんどくさいから……」
「じゃあ作り置きでいいじゃないですか。土日に一週間のご飯を全部作って、ビニール袋に入れて冷凍しておけば楽でいいですよ」
「……」
「呆れ顔で僕を見ないでください。一番効率的ですよ」
「消し炭にする自信しかないんだけど……」
「そうですか……教えてあげましょうか?」
「というと?」
「まだ一ヶ月は開店しないので、その間に料理の方法を教えてあげますよ」
「でも……」
「僕がやりたいだけですから」
「じゃあ……ありがとう?」
「いえいえ」
私たちはそれから他愛もない話をして、一時間ほど笑っていた。
「じゃあ、仕事に行ってくるよ」
「頑張ってくださいね。あ、ラインが破壊工作で止まってるんでしたっけ」
「そうだよ」
「大丈夫ですかね」
「たぶん大丈夫でしょ」
「なら安心ですね。行ってらっしゃい」
動き出す朝の街に、茂樹くんは私を送り出した。
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