空気はカカオバター
くろかね三号館に着くと、和徳はちょうど店から出てきたところだった。
「どうも」
「どうも。来月誕生日だったよね」
「そうだな……今年はシングルベルも誕生日ぼっちも解消できそうだよ」
「よかったね」
「君の提案だろ」
「まあそうだけど」
「ちょっと待って」
私はいきなり広がる濃密な空気に驚きを隠せなかった。
「二人は今どういう……」
「ミリオタ仲間兼付き合い始めて11か月」
和徳が少し不機嫌そうに言う。私は知っている。和徳は照れくさいと口調が少し不機嫌そうになるのだ。
「あ、和徳さん照れてる」
「そこまで認知してるのか……」
私は和徳に言いたいことをそっと引っ込めた。
「まぁすでに11ヶ月だからね」
「どこで……知り合ったの?」
「昨日のミリタリーショップです」
「はええ……」
「そうそう和徳さん、今日会社大変だったんだよ」
「どうしたの?」
「いや……ラインが止まっちゃってさ」
「ええ……大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないよ……ベルトコンベアには薄くミシン目が入ってたし、モーターの線はあべこべにつながれてるし、モーターの回転数がいじられててギヤが粉砕するし、コンデンサに過充電する回路が仕込まれててコンデンサは破裂するし、制御に使うパソコンのハードディスクは中で粉々になってたし…」
「それどこの破壊工作?」
「間違いなく破壊工作だよ。ただ、手口は似てるけど近頃巷で噂の月曜停止魔とは違うっぽい」
「月曜……停止魔?」
「うん、最近製造業を恐怖に沈めてる奇怪な噂だよ」
「どんな噂なの」
「月曜日に工場のラインが破壊工作されてて停止させられるっていう事件が多発してる……っていう噂」
「その破壊工作は全部同一犯ってこと?」
「そうらしいよ、ラジオスタイルや週間パストにも特集記事が組まれてるし」
「へえ……でもそれとは違うって?」
「私の見立てによると、これは月曜停止魔を騙って私怨を晴らそうとしている月曜停止魔ではない犯人の仕業だと思う」
「どうして?」
「封筒が少し高いものだったから……。月曜停止魔は私が特集で知ってる限りでは予告状の封筒に安い茶封筒を使うけど、うちに来た予告状は高い茶封筒だった」
「はええ……まるで探偵だね」
「警察もすぐ気づくかもしれないけどね」
「そうかもしれないけどさ……すごいよ」
「ありがとう」
私は和徳と中島さんに背を向けて、家へと帰った。
「はあ……」
ため息をついて鞄を下ろすと、何かがカサリと音を立てた。
「なんだろ」
見ると、そこには時計が入っている。
「どうしよう……また渡せなかった」
私は風呂に入ったあと、しばらく考えた。
「また明日にしようかな」
そうも思ったが、私はある恐怖に襲われた。
「こうやって先延ばししていると、いつまでも先延ばしにすることになるのでは……?」
そうはいかない、という思いが体の中を駆け巡る。でも今はもう渡せない。
「明日絶対に渡す」
私は手のひらに油性ペンでそう書きこんだ。そして私は、夕食の準備に取り掛かった。疲れているのでコンビニで弁当を買おうとも思ったが、私の中の焦りがそれを許さなかった。
「あんた、ズボラだからろくな縁にめぐり合わないのよ」
大昔に誰かからもらった言葉が刺さってくる。
「作るかあ……」
そう決めた私は冷蔵庫を開けたが、中には白菜が入っているだけだった。
「……」
白菜はドヤ顔で私のほうを凝視している。仕方がないので白菜を刻んで塩昆布と和え、酒のつまみを作った。
「あーもう……!」
そんな独り言を口走りながら、私はノンアルコールビールをコップに開けた。
隙間風が冷たく吹き込んでいる。周りを見回すと、懐かしい光景が広がっていた。どうやら私は今のアパートではなく、母と暮らした家にいるようだ。電話のベルが鳴る音が聞こえる。
「はい小林です」
母の声が聞こえる。十五年ぶりの母の声に、私は思わずあっと驚いた。
「え?優花が……?」
どうも隣から聞こえてくる声の様子がおかしい。
「そうですか、すぐに向かいます」
受話器を置く音。そして、母が鞄を持つ音。
「お母さん、私ここにいるよ」
そう叫んで私が立ち上がろうとすると、私の足はなかった。
「……え?」
気がつくと、私はちゃぶ台に突っ伏して寝ていた。ちゃぶ台の上を見ると、いつの間にやら飲んでいたビールがある。時計は午前4時を指している。
「あーあ……」
私はどうやらお酒を飲みながら寝てしまったようだ。暖房のせいだろうか、頭がぼうっとする。
「もう起きとくか」
まだ酔いの覚めやらぬ頭でそんなことを考えながら、私は残っていた酒のつまみをパックご飯に乗せ、電子レンジの「温め」スイッチを押していた。
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