Ⅰ ブート・ランデブー
Ⅰ-1 バリアブル
戸惑いのショコラティエール
午後7時、スイートラジオの店内に入ると、若い男が「いらっしゃいませ」と応対した。私は母のチョコレートの箱を見せ、「これはどこにありますか」と聞いた。
「これですか……随分と古いですね、お客さん」
「え?」
「このチョコレート、今は作ってないんですよ」
「……そうですか」
私はそう言いながら、店内の棚を見回した。そして棚の一つに、私の持つ箱と同じデザインの箱が積まれているのを見つけた。
「あれは……?」
「あちらはリメイク商品ですね」
「というと……?」
「うちのチョコレートのレシピはほとんど先代が考案したのですが、そのノーマルビターチョコレートだけはレシピが残っていなくて、先代が十五年前に死んだときに、レシピが分からなくなってしまったんです。当時は私もまだ子供で、味が分析できなかったものですから、今のものは全く別物と言って差し支えありません」
「なるほど……?」
「ところで、つかぬ事をお伺いしますが……」
「なんですか」
「もしかしてあなたは……小林優花さんですか?」
男は唐突に私の名前を言った。
「ええ、そうですが」
「ああ、やはりそうでしたか。二十二年前にご来店いただいた際は大変失礼いたしました」
「ええ…?」
私はどうやら、過去にこの店に来たことがあったらしい。しかもそのときに、この男に何かされたというのである。
「僕はあなたに、酷いことをしてしまった」
「何をしたんですか……?」
私が恐る恐る聞くと、
「僕は真冬に、あなたに水をかけてしまいました」
「何があったんですか?」
「小学校で喧嘩をしたんです」
私の頭の中に、この男の名前が浮かんできた。
「もしかして……あなたは山茂樹ですか?」
「名札にも……あ、名札が……」
男は店の奥に入ると、名札をつけて出てきた。
「ええ、いかにも。僕は山茂樹です」
「茂樹くんか……随分変わったね」
「そうですか?ああ、トレードマークがないと分かりませんかね」
茂樹くんは古いメガネを胸元から取り出した。
「ああ、茂樹くんだ」
レンズの大きなメガネをつけた途端、店員の若い男は私と同い年の茂樹くんになった。
「このメガネ、いつか昔の知り合いが来たときにはかけようと思って、いつも用意してるんです」
「何回かけたの」
「まだ一回もかけてないんですよね……」
「ってことは……」
「優花さんが、僕の店に入った同級生の第一号です」
「へえ……」
「あ、一つお願いがあるんですが……聞いてくれますか?」
「何?」
「さっき持ってたチョコレート、まだ中身があるんですよね?」
「あるけど……あげないよ?」
「百倍にして返します」
「あげないけど……どういうこと?」
「本物のノーマルビターチョコレートがあれば、おそらく先代の味が再現できるんです。今の僕が作っているのは、いわばニセ物。味を見れば分かると思いますが、苦いだけでそれ以外はただのビターチョコレートです」
「どれどれ?」
「あ、そこに試食用があるんでよかったらどうぞ」
私は積まれていた箱の手前に置かれた缶の中からチョコレートを一かけら取り出して食べてみた。口の中に広がったのは、苦みと甘みが合わさった単純なビターチョコレートの味。
「確かに違うね……何が違うんだろう」
「おそらくチョコレートのカカオマスや豆の配合が違うので、苦みが立ってしまうんだと思います」
「なるほどねえ……わかんないけど、まあ試食は私に任せて」
「別にいいですけど……」
「いいの?」
「だって本物はもらえないんでしょう?」
「まあそうね」
「なら仕方ないじゃないですか」
「ゆすられてるみたいに言わないでくれる?」
「仕方ない、に嘘はないですよ」
「そうなんだろうけどさあ……誤解を招く言い方ばっかりしてるからあの時もいじめられたんじゃないの?」
「それをネタにしないでください」
「なんでよ」
「いじめた方はすぐに忘れても、いじめられた方は死ぬまで忘れないんですよ」
「そうなの?」
「そもそも水ぶっかけたのも助けてくれと言ったのに助けてくれなかったのが…まあいいや、とにかくあれは僕のせいじゃないです」
茂樹くんがものすごい勢いでいじめに関する話を展開する。
「わかった、わかったから」
「わかってないですよ!二度とその話はしないでください!」
「わかったよ」
「では、またのご来店をお待ちしております」
「ちょ、なんで追い出すの」
「閉店時間ですから」
「何時なの」
「もう午後9時です」
「まじか」
「では、また明日……」
「ええ……」
「明日なだけいいじゃないですか!」
「飲みに行かない?」
「二度と会わないと言ってもいいんですよ?」
「あっはい明日にします」
「このあとは明日の分を作らないといけないんで」
「はいはい」
一時間ほど前に降り出したはずの夕立は止み、空は紺紫色に染まっていた。
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