追憶のチョコレート

古井論理

序 メモリーズ

少女時代の記憶

 電話のベルが鳴ったその瞬間には、私はまだ電話で知らされることを知らなかった。

「夜分失礼します、広島県警の長谷部です。病院からの依頼で電話しました。小林智恵さんのお宅で間違いないでしょうか」

「はい」

「娘さんですね。先ほど小林智恵さんが交通事故に遭われました。意識不明の状態で、手術中です。すぐに鎌名病院に行ってください」

「は、はい」

 冷や汗が止めどなく流れる。私が黙っていると、電話はなんの前触れもなく突然切れる。私はJRタクシーに電話をかけた。家の前までタクシーを回してほしいと伝える。

「5分で着きます」

 JRタクシーのオペレーターが言うのを聞いて電話を切ると私は急いで着替え、鞄を持って家の前に止まったタクシーに乗り込んだ。2歳の頃に父が死んだのを教えられたときとは段違いの焦燥が、私を急かしていた。

「鎌名病院まで、急ぎでお願いします」

「かしこまりました」

 タクシーが走っている間、私の中では母を心配する自分と自分を落ち着かせようとする自分が騒いでいた。

「着きました。7000円になります」

 タクシー運転手に1万円札を渡そうとしたが1万円札はなかった。私は財布から1000円札7枚を取り出した。

「ありがとうございます」

 運転手の声を尻目に、私は走って病院のエントランスに走り込んだ。

「小林智恵の娘です」

「三階のICU(集中治療室)に行ってください」

「はい」

 ICUに到着すると、医師が待っていた。

「小林智恵さんのお子さんですね?」

「はい」

「小林智恵さんはくも膜下出血を起こされています。手当は続けていますがどうなるか分かりません。お父さんはお亡くなりになっているとのことですから、万一の際に備えてあなたに延命治療の方針についてお伺いしてもよろしいですか?」

「えっと……」

「もし意識が回復する確率が著しく低く、脳の活動が全て停止し、ただ生きているだけになった場合に延命治療をしますか、という話です。ご本人の意思カードにはしないでくれと書いてあります。どうされますか」

「延命治療はしません」

「わかりました」

 医師が去ったあと、私は一睡もできないまま夜を明かした。しかしなかなか医師が現れないので、不安になって看護師に聞いてみた。

「母の……小林智恵の手術は終わったんですか」

「まだです」

「そうですか」

 そのとき、医師がやってきた。

「小林さん、智恵さんがお亡くなりになりました」

「嘘……ですよね?」

「いいえ」

「どうして死んだのですか」

「手は尽くしましたが損傷が酷く、先ほど脳波が消失し、心拍が止まり、脊髄反射も消失しました」

「……そうですか」

「葬儀会社に連絡しますね」

「はい」

 葬式には、私の他には叔父夫婦が来ただけだった。葬式のあと、叔父と私はこのあとのことを話した。

「これからどうするんだ」

「どうしようもないです」

「うちで面倒見てやろうか?」

「大丈夫なんですか?」

「なに、問題はないよ。子供が一人増えたと思えばいいからね」

「ありがとうございます」

 なんと二つ返事で叔父夫婦に面倒を見てもらえることが決まったその日から、私は家の中を整理しはじめた。

 部屋を順々に整理していくと、冷蔵庫から母が生前作った料理が出てきた。私は無心でそれを食べながら、片付けをしていった。そして最後に母の部屋を片付けていると、母が毎年誕生日に私にくれていたチョコレートが出てきた。3歳の誕生日に初めてくれたんだっけ。

「あと5つか……20歳までは祝ってくれるつもりだったんだな」

 そんなことを思いながら、私はそのチョコレートを大きな鞄の一つに入れた。

 引っ越しが済んでから私が30歳になるまでの間のことは、特に言うべきことでもない。私は30歳の誕生日が来るまで、そのチョコレートのことすら忘れていた。30歳の誕生日になって、私は半ば実家と化していた叔父の家にある自分の部屋の片隅に、いつか見た綺麗な箱を見つけた。古びたビニールのフィルムで包まれたそれは、確かに見たことがあるものだった。

「何だったっけ、これは」

 開けてみると、そこにはいつか見たチョコレートが入っているではないか。私はどこからともなくあふれ出る懐かしい気持ちとともに、そのチョコレートを一つ、口に運んだ。口の中に、カカオの香りと甘くてほんのり苦い味が充満する。

「お母さん……」

 私の目から、涙があふれた。その味は、15年の時を経て帰ってきた、確かな想い出の味だった。私はもう一つチョコレートを口に運んだ。今度は脳裡に母の顔が鮮明によみがえってきた。私は母に会いたくて、何度も何度もチョコレートを口に運んだ。

 気がつくと、私はチョコレートを半分ほど食べていた。この味は今も買えるのだろうか。そう思って、検索してみた。すると、母と暮らしていた家の近くにある店がヒットした。

「スイートラジオ」

 その名前は、確かに聞き慣れないものだった。だがチョコレートの箱には、確かに製造元として書いてある。だから私は、明日スイートラジオに行く予定だ。母に会いに行くために。

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