リップクリームと、るすでん
ところが地上に戻ってすぐ「お兄さん、待って」と声を掛けられる。
直史が振り返ると、そこには隣の席にいた男がいた。階段を駆け上がってきたのか手ぶらだ。
「どうしたんですか?」直史が尋ねると、男はにこやかに「落としたみたいですよ」と手を差し出した。そこに握られていたのは…。
「あぅ……」
直史は声にしがたいリアクションをあげた。彼が持ってきてくれたものは確かに間違いなく直史の持ち物だったが、あまり人に見られたくないものだった。なぜならそれはリップクリームで、それなら普通だが、少女漫画の復刻版限定生産のリップクリームだったからだ。
天体モチーフの飾りにキラキラした装飾が施されたモデルで購入するのにも苦労したのだ。それを「自分のじゃないっスね」とは言えず、直史はどこかぎこちなく礼を言って受け取った。だが男はなにも気にせず返事をした。
「店出た時に中身が転がり落ちちゃったみたいだね」
会計の後にカバンを開けっ放しにしていたとはいえ、ポーチまで開けっ放だったとは、叶直史一生の不覚。これならコンドームを落としたほうがまだマシだったかもしれない。明るい笑みで手を振る男に、直史もつられて手を振ったが赤面していた。
「お兄さん、またね」
「おう……、あ、ありがとな」
そんな挨拶をして、彼とは別れた。
家に戻ると留守電が点滅していたので、直史は少しだけそれを睨みつけてから悩んだ挙句再生ボタンを押した。待ち合わせていた彼女がどんな言い訳をしているのだろうかと電話を背にしてソファに座ると内容はまったく想像していないものだった。
”滝本です。こんな時間までなにやってるの”
その声に思わず振り返り、電話の前に戻って腕を組み、ついでに首を傾げた。
「誰だろう? こんな時間にかけてくるなんて、こっちのセリフだぞ」
電話機に向かって独り言ちる。相手はまだ話している。機嫌が良くなさそうなことだけはわかる。
”どうせ今日も残業とかいうんでしょ。あんた仕事遅いもんね”
「…やなやつ、やなやつ」
直史は口をとがらせて、数回呟いた。先のカントリーロードがテーマ曲の、アニメキャラクターの真似だ。
”ずっと待たせといて連絡もないなんて”
「え…?」
ツー ツー と、ここで留守電は終わった。どこか悲し気な物言いに、直史はすこし呆然とした。自分と同じく待ちぼうけをくらい、怒って少し悲しんで間違い電話をかけてきた相手にどんな言葉を掛けようか少しだけ考えていた。
リップクリームと留守電 おわり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます