今回の旅はどうだった?

「なにか面白いことはあった?」

 注文したポテトをつまんで直史が訊いた。


「うん、今回も興味深い滞在だったよ。住み込みでレストラン……あれはシャトーかな。田舎の洋館なんだけどね。そこで給仕の仕事をしてきたんだ。その地元の名家が集まるちょっとしたイベントみたいなものさ」

 涼くんもポテトをつまむ。ラムスペアリブが運ばれてきて、美奈子がナイフとフォークで丁寧に切り分けている。2人はお礼を言って肉をかじった。


「三日三晩、レストランでパーティをしてさ。パーティって言っても派手なものじゃないんだ。名家のそのまた名家の……って、いろんなお家柄が集まってきてね。それを今回のシャトーの持ち主がホストとしてもてなすってわけ。僕はレストランの雑用係を担当したんだけど、料理長が厳しくてね。初日はすごく怒られちゃったよ。しかもレストランホール内でグラスを1つ落としてしまったんだ。さすがに慌てたよ。でも担当していた席の客人夫婦がとても余裕のある人たちでね。グラスを素手で拾おうとした僕を止めたんだ。お兄さん、素手で触っては危ないわよって」


「それ、何時代の話?」美奈子は面白がるように、でも茶化さずに訊いた。


「今時代さ。僕はすぐに裏に回って箒を掴んで飛んで戻ってきた。まるで初めてのアルバイトで失敗した10代の頃の気分だったよ。その夫妻はレストランから自室に戻る時も、とにかく僕を気遣ってくれた。僕は名家の人間っていうと、少し高慢な人間を想像してたんだけど、全くそんなことはなかった。料理長は厳しくて言葉遣いも荒々しかったけど、それだけあの仕事が大事なんだ。僕は普段、無機質なチャートとにらめっこしてることが多くて、画面の向こう側に広がる人間の存在を忘れてしまうんだ。でも世の中には仕事熱心な人間がいるんだってことを思い出したよ。それに料理長の賄いご飯、すごく美味しいんだよ。また北にいくことがあったら、僕はたぶん、あのシャトーに顔を出すと思うよ。それにあそこは空気も景色もすごくいいんだ。砂利道が残っててさ、仕事のあとによく近くのススキ畑を歩いて眺めたよ。バイト期間が終わってからは、そこで貯めた金を使って土地を移動しながら過ごしたよ。いい滞在だった」


「世の中の仕事熱心な人間かぁ」

 直史がぼやいた。なんとなく遠くを見ているような顔をしているのは、何年も前の、自身とやる気に満ちた新卒の頃の自分を思い出しているからだ。あの頃の自分はどこへ行ったのだろうか。


「直史も、美奈子さんも、同じ仕事をずっと続けていられるの、すごいと思うよ。僕には選べない道だったからね」

「涼くんはいいなぁ、きれいな世界をみれて」美奈子がそう言いながら肉をつつく。

「僕は自分の見たいものしか見てないだけだよ。それに今回も失敗も、なにかしらの気づきになると思ってる。怒られたりしたのだって、何年ぶりだろうって少し感動すらしたよ」


 怒られて感動するなんて、なかなか稀有な人間だぞ、と直史は思った。美奈子が口を開く。


「高慢な人間っていうなら、名家の人よりも世間一般の方に溢れてるかもね」

「うん、そうかもね。僕はそれを知って、会社を辞めたんだから」

「私も辞めちゃいたーい」

「俺も~」


 2人は感情の籠らない声でそう言って、グラスの中身を飲み干した。涼くんがクスっと笑った。


 3人の世界は交差することはない。それぞれが垂直に立ち並び、互いに様子を見合い、たまに声をかけあう。誰の生き方も否定せず、自然な関係を受け入れあう。2人にとってそれが成立する相手が、朝比奈涼だった。

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