騎士ジョアンは修道女エリシュに随伴する。20
「ジョアン、いますか」
エリシュはふと目覚めたらしい。そのまま体も起こさずに、仰向けのまま小さな声を絞り出す。
「ジョアン……」
「はい、ここに。エリシュ様」寝台のすぐそばに座っていたジョアンは、体を寄せ、抑えた声で返事をする。
目が沁みているかのように細められた目で、エリシュの視線は少しさまよい、ようやくジョアンの姿をとらえた。
目が合った瞬間、ジョアンは目が眩んだように感じた。
修道女エリシュが普段から装っている厳粛な表情は取り払われ、そこにあるのは一人の若い女の、気だるげな表情だった。蒼白な顔に、細い首、細い肩──
「……水をください」
弱弱しくつぶやくエリシュを見ていると、ジョアンはなんだか腹の底がもどかしいような気分になった。
修道女エリシュはまだ本調子にはならないらしい。普段の整然とした感じとは異なり、どこか泣きつかれた子供のような不安と幼さを感じさせた。
ジョアンの介護によってなんとか上体を起こし、ようやく水を飲み下した。
その後、苦しそうな呼吸を整えて、ぽつりと言った。
「ジョアン。あなたは赤子を抱いたことはありますか?」
「ありますよ、エリシュ様」とジョアンは何の気なしに答える。はるか昔の、つまらない記憶を思い出す。「あたしがまだ本山に奉公に出る前のことですがね。子守なんかもあたしの仕事の一つでしたよ。あたしの生まれた村は貧しくって、誰であろうと仕事をやらなきゃいけなかったから」
「そうですか……わたしは昨日、初めて赤子を抱きました。御包み越しにも伝わってくるあの体熱──いまでもこの腕に残っているようです。世の人々にとっては自明なことかもしれませんが、わたしにはとても不思議なことに感じられました。まるで熱した石でも抱えているかのようでした」
エリシュは、赤子の体温がまだそこに残っているかのように、自分の両腕をじっと見つめる。
「──ジョアン。あなたは、人を殺めたことはありますか?」
「そりゃ、ありますよ。相手は取るに足らないような賊でした」
「恐ろしくはありませんでしたか?」
「敵が、ですか?」
「自分の手で人の命を奪うことが」
「殺さなければ殺されますからね」
相手を殺せば殺されることはなくなる。それがこの世界の根本原理である──砦の騎士団の教えである。修道会を守護する騎士団といえ、その本質は人殺しに他ならない。
「わたしは、恐ろしかった」と修道女エリシュ。「秘儀の結果によっては、御子に対して処置をしなければいけないと考えると──恐ろしくて、悲しくなりました。わたし自身の手で、あの熱を帯びた小さい身体を、冷たい骸に変えることなど……死んでしまえば、もう二度と戻らないのに……」
修道女は首を垂れ、両腕で自分の身体を抱えた。
──なんて清らかな人なんだろう、と騎士ジョアンは思った。自分とは違う、他の誰とも違う。繊細で正しい人。この人と比べたら、この人以外、全ては間違っている。王国も、修道会も、全てが狂っている。この世界において、正しいのはこの人ひとりじゃないか。
切ないような気持ちがこみあげ、どうしようもなくなったジョアンは、震える修道女の身体を抱きしめた。
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