騎士ジョアンは修道女エリシュに随伴する。12


 翌日から、修道女エリシュの忌籠りが始まった。

 砦の修道会の教学によると、人間とは本来、不完全かつ不安定なものである。人間の精神は肉体から生じる感覚と感情によって歪められ、正しくないものへと捻じ曲げられてしまう。その捻じれが限界を超え、破断し、現実世界と齟齬をきたした状態こそが魔術である。その対極である状態、すなわち人間の精神が研ぎ澄まされ、歪んだところの一切ない状態こそが、修道会が追い求める境地である。

 そしてその境地においてこそ、修道女は秘跡を行うことができる。何にも惑わされない心と智慧の働きによって正しい答えを導くことができるのだ。

 修道女エリシュは床に座り、目を閉じた──

 本山を出発しこの王城に至るまでの旅路において、すれ違う人々に対して清澄さを放射し、そして反対に俗世から穢れが彼女の身体に向かって波及してきた。いま彼女は、きたる洗礼の儀式に向けて、その穢れを振り払うべく、黙想を行う。

 彼女の物忌が終わるまで、この部屋への出入りは禁じられている。護衛のジョアンだけを残し、外の世界とは隔絶されたのだ。

 騎士ジョアンは扉近くの壁に背をつけて座り込んでいた。座り込むといっても、独座する修道女とは異なり、その足は楽に崩されている。

 ジョアンの身体には、昨夜の宮廷魔術師の侵入の際に使った奥義の反動が訪れていた。吐き気とめまい、節々の痛み──砦の騎士の奥義とは、その精神力によって肉体を思うがままに操作する技術である。もっぱら女である騎士から構成される砦の騎士団が精強と評されるのは、この奥義があってこそだ。精神による肉体の超克という点で、砦の騎士は砦の修道会の思想を汲んでいる。

 ただしその常人離れした武技の代償は、確実に本人の身体を蝕んでいく。

 一つの伝説としては、賊に襲われた修道女をかばい一晩中奥義を使って戦った騎士の話がある。朝方になりようやく危機を脱して奥義を解いたその騎士は、途端に四肢が断裂して絶命したという。(この話を初めて聞いたとき、馬鹿なほら吹き話だなとジョアンは思ったものだ。──とはいえ、命をかけて修道女を守るというその行動は悪くない。きっとその修道女はエリシュ様のような人だったのだろう、とも思った)

 全身の痛みを感じながらも、ジョアンはじっとエリシュの方を見る。目を閉じた修道女はまるで人形のように動かない。それでいながらも、周囲に空気を凍り付かせるような、そんな迫力があった。

 こうやってエリシュ様をただ見守るだけというのも悪くないな、とジョアンは思った。雑念が払われ、心が落ち着いていく。意識はただひたすらに、エリシュ様の御姿に向かい、その他の穢土に属するあらゆるものが薄らいでいき、意識の上から消失していくかのようだ。

 この王都につくまで、そして王都についてからもいろいろとあったが、結局それらのことは些事なのだ。精神を惑わす歪みに他ならない。本質的なところにはなにも影響を及ぼしていないはずだ。

 エリシュ様はきっと、洗礼の儀式で公正な判断をもたらすだろう。

 しかし──と、ジョアンはふと苛立たしく扉の方を横目で見た。なにやら、さっきから城内が騒がしい。無礼な連中め。もう少し静かにしたらいいものを。

 物議のある洗礼の儀式を明日に控えた今、鎧を着た兵士たちが慌ただしく場内を歩き回り、高官たちががなり声で言い合い、女官たちはひそひそと噂話をささやきあう──そんな雰囲気が城内に満ちているようだった。

 俗人というのは煩わしいものだな、とジョアンは思った。それに比して、いま目の前にいるこの修道女のなんと静謐なことだろう。

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