バンクロフトは呪いに苛まれ、治安局に告訴する。1


 鼻の奥の、チクチク、イガイガ、ガサガサ──バンクロフトは、とてもではないが平静ではいられなかった。これは呪いだ、と彼は考える。どこかの魔術師が、なぜかは知らないが、この俺に呪いをかけたのだ!

 彼は本当ならば、この治安局の窓口の行列の最後尾に並ぶなんてことはしたくはなかった。人々を押しのけて、誰よりも先に、優先的に対応してほしかったのだ。しかし彼がいくら差し迫った状況を訴えたとしても、治安局の小役人はうんざりとしながら長々と続く行列の最後尾を指すだけだった。

 煉瓦造りの庁舎の中は薄暗く、湿気て冷ややかな空気に満ちていた。

 バンクロフトはいらだたしく、自分の前に立ち並ぶ人々を見やった。どいつもこいつも卑しい顔をしている。そのくせ、あたかも自分は被害者であるかのように、せせこましく周囲の様子を伺っている。

 行列を構成する彼らは皆、告発人である。市中で魔術師を発見した者はただちの治安局へと届け出る義務がある──しかし、この人数は明らかに過大であった。いくらカルドレイン王国有数の大都市とはいえ、これだけの告発人の数に見合う魔術師が現れることは、統計的に言えばありえないことだ。

 バンクロフトの胸の中に、軽蔑の気分が込み上げてきた。まったく、あさましい連中だ──要は、讒訴である。利害関係にある相手、あるいは単に気に入らない相手を、あわよくば魔術師に仕立て上げててやろうとしているのだ。商売敵や、口うるさい隣人、それに夫の浮気相手、等が大概の相場である。

 むろん、治安局も馬鹿ではないので、尋問の過程でその告発のだいたいの真偽は判別されてしまう。それでも、治安局にとって──いや、王権にとって、魔術師の摘発というのは、その正統性にかかわる根本的な問題なのだ。膨大な虚偽の中に秘められたわずかな真実の兆候を見逃すまいと、根気強く──ただし末端の小役人はうんざりしながら──告発を記録して分析にかけているのである。

 とはいえ、なんにせよ、いまのバンクロフトにとっては迷惑千万な話だった。

 行列は、遅々として進まない。

 チクチク、イガイガ、ガサガサ──と内側から発する小さな暴虐に、彼は卒倒しそうになる。鼻の穴から節くれだった木の枝を突きさして、内側をめちゃくちゃにかき回してしまいたくなる──いや、いけない。そんなことをしてしまったら、それこそこの呪いをかけた魔術師の思うつぼかもしれない。

 平静でいなければ、とバンクロフトは努めて心の中で考えた。平静であること、正気であること、清澄であること──すなわち、精神異常の具象化たる魔術との正反対であること。それが重要なことだった。彼目を閉じて、口の中で小さく、伝説上の聖女たちの名を素早く唱えた。清澄な聖女の称名は魔術への抵抗をもたらすと信じられていた。

 気を静めて、なんとか呼吸を整えようとする──

 しかし、発作が起こった! 収まりかけていた痛痒はとたんに爆発し、呼吸にまつわる神経を無茶苦茶に刺激する。

 血の味のする咳が何度も起こり、バンクロフトは息も絶え絶えになる。それでも苦痛は少しも外に出ていかず、内側でただひたすらに膨れ上がっていく──

 行列に並ぶ人々は、不快そうにバンクロフトの方を振り返った。眉を顰め、あからさまに睨みつけている。その目から発せられる、軽蔑、嘲笑、嫌悪──

 ふざけるなよ、とバンクロフトは苦しみに悶えながら思った。いま俺が苦しんでいるのは、おまえらのせいじゃないか。おまえらが必要もないのにこうやって治安局に殺到して──本当に助けが必要な俺のことを遠ざけて──ちくしょう、どうして俺ばかりが、こんな目に合わなくてはいけないのだ!

 激しさを増す痛痒が彼の頭の中で寄り集まり、一つの悪意ある形を作った。それは周囲の肉をこじ開け、削ぎ切りながら、ずるずると顔の前面へと這い動く──ぷつん、と小さい衝撃があった。

 バンクロフトの右の鼻穴から飛び出て床に落ちたのは──血膿にまみれた一匹の飛蝗だった。

 驚く間もなく、続けざまに、バンクロフトの鼻の穴からはぼとぼとと飛蝗が零れ落ちていく。床の上には、血のぬめりと、うごめく飛蝗たち──。

 一瞬、沈黙があった。

 飛蝗たちがめいめい飛び上がると同時に、悲鳴が起こった。

「──魔術師だ!」

 人々は、後じさりながらバンクロフトを指さした。

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