審問官ブレイクスリーはカルドレイン王国を出奔し、オルゴニア皇帝の庇護を求めて北へと逃亡する。7


「ようし少年。審問局にいくか」

 ロスは少年の頭をひとつなでると、曲げていた腰を伸ばした。そしてブレイクスリーの方を振り返る。

「ねえ、先輩。こいつは俺が直接連れて行ってやりますよ」

「……いや。それは俺がやろう。おまえは引き続き市内の見回りをしてくれ」

「──どうして?」

 当然、承諾が帰ってくるものだとばかり思っていたブレイクスリーは、面食らい、わずかに動揺した。

「どうして、とはどういう意味だ」

「気になったんですよ。説明してくれたっていいじゃないですか。……それともなにですかね。俺に言えない理由があるっていうんですか」

 剣吞な雰囲気。ロスの言外のふるまいが、この橋の下の地点に緊張感を発生させる。

 大人二人に対して、少年はなにが起こっているのかわからず、不安そうに二人の顔を交互にみるしかできない。

「ブレイクスリー先輩? まさかとは思うが……あんた、この子供のことを『可哀そうだ』って思ってるんじゃないでしょうねえ?」

 仮面越しに、ロスの両目がじっとブレイクスリーをにらみつけた。

「……」ブレイクスリーは答えない。

「おかしいなあ。それはおかしいですよブレイクスリー先輩」とロスは演技かかった調子で声を上げる。「魔術師として覚醒した人間がいたら、そいつは捕らえられて審問局に送られなきゃならない。それがこのカルドレイン王国の決まりでしょうに。だからあんたはその決まりに則って、これまでに数えきれないほどの人間を審問局送りにして、処置をさせてきたんだ」ロスの声色に、怒気がにじみ出る。「そんなあんたが、いまさら何です? そりゃあ、たしかにこの少年はちょっとは可愛いみてくれをしていますがね。しかしそれがなんだっていうんです。それでいまさら気がとがめているっていうんですか」

「……違う、そんなことはない」

「なにも違わない! あんたのその目をみりゃわかる!」ロスは声を荒げた。

「落ち着け、ロス」

 精神異常だ、とブレイクスリーは心の中でつぶやいた。魔術の根源であるところの、世界に対する歪んだ認識。

 今やロスは、その妄念にとらわれているのは明らかであった。

 その捻じ曲がった観念は──しかし、結果的にはまさしくブレイクスリーの内心を見抜いていた。

「たしかに俺は興奮しているかもしれませんが、それでもあんたの腹の内はよくわかりますよ。なんなら、あんた本人よりもわかっている──いまはっきりとわかっている。あんたはこの子供のことを可哀そうだと思っている。そして審問局へ連れていくのをためらっている。……あのとき、ほんの少しの慈悲もなく俺を捕らえたのは、ほかでもないあんただっただろうに」

 ロスは腰に釣った剣の柄に手をかけた。

「おい、何を考えている──馬鹿な真似はよせ」

「馬鹿な真似っていうのはあんたのことですブレイクスリー先輩。──いまはっきりと分かった、全部、完全に分かった」

 ロスの声には確信があった。

 すでに彼の中では、その観念が固着して、彼の世界における真実と相成った。

 仮面越しの、見開かれた双眸。

「あんたはこの子供を審問局から守ろうとしている──そんなのズルじゃないか。どうしてこいつだけが処置から逃れられる? じゃあ、どうして俺は処置から逃れられなかったんだ? ──なあ、ブレイクスリー先輩。俺は全然納得できない。俺は納得したいだけなんだ──」

 ロスは短い呪文を唱えながら剣を引き抜いた。

 剣先からほとばしる稲妻が、ブレイクスリーに向けられる──。

 ブレイクスリーも剣を抜き放ち、それを迎え撃った。

 次々と唱えられる稲妻の呪文を前に、ブレイクスリーは苦戦を強いられた。

 ひとつひとつは大したことのない呪文であるが──いや、ロスはあえて細やかに呪文を唱えている。それぞれに対して打消しの呪文を当てることはわけもないが、しかしその飽和的な攻撃を前にして、ブレイクスリーは反撃をすることもできない。

 はたして稲妻の呪文と打消しの呪文のどちらの方が短いか、とブレイクスリーは考えた。

 明らかに、ロスは意識的にこちらの打消しの呪文を前提として呪文を唱えている。稲妻の呪文ほうが僅かにでも短ければ、その小さな差が蓄積していき、いずれは──

 捕らえきれなかった稲妻の呪文がブレイクスリーの左肩を貫いた。

 熱と衝撃が全身を走る。

 それでもブレイクスリーは意識をそらすことができない。

 少年を守らなければいけない。ブレイクスリーの直観はそう示していた。それはあまりにも大それたことであり、彼の中には迷いがあった。それを行動に移してしまったら、それは審問局に対する裏切りとなる。

 けれど、いまやブレイクスリーは決心をしている。

 ロスの攻撃がブレイクスリーに最終的な覚悟を決めさせていた。

 ロスがまた稲妻の呪文を唱えている──それを見て、ブレイクスリーは剣を低く構え直して呪文を唱える。それは打消しの呪文ではなかった。

 稲妻の呪文が解決される寸前、ブレイクスリーは剣を振り上げた! まだ唱えている最中の呪文はそこには乗せられておらず、代わりに剣先にひっかけた泥がロスの顔に降りかかる──

「汚い真似を!」

 稲妻の呪文を外したロスは怒りに声を上げた。稲妻の呪文を唱え直すが、しかしその隙は大きかった。

 ブレイクスリーが唱えた霧の壁の呪文は解決された。

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