審問官ブレイクスリーはカルドレイン王国を出奔し、オルゴニア皇帝の庇護を求めて北へと逃亡する。6


 ふと、橋の下に声が響いた。

「──あの、審問官さん」

 それは震えていて、うわずった声だった。

 ブレイクスリーがその声のほうを見てると、ひとりの少年がいた。彼は暗く足もとが悪い中を苦心しながら近づいてくる。

 その身なりは粗末なものであり、類型的な児童労働者のようにも見えた。全体的にすす汚れており、みすぼらしかった。しかし一方で、その少年の顔立ちは整っており、明るい髪色も相まって、利発そうな印象を見るものに与えた。

 おずおずとした態度ながらも、その少年の目には決意の光が宿っていた。

「なにか用かい、少年」と、ロスは疎まし気に少年を見下ろした。「先に言っておくが、物乞いなら俺はお断りだぜ。そっちの審問官さんに恵んでもらいな」

「違います! その、そうじゃなくて……魔術師がいたら、審問局に届け出るのが決まりなんですよね」

 仕事の話が出てしまっては、ブレイクスリーとロスの二人は態度を変えざるを得ない。

 しかし、それでもこの時点ではあまり確証のある話のようには思えなかった。一般市民からの密告は、なんらかの錯誤や悪意のある虚偽の報告がほとんどである。

 ブレイクスリーは目配せでロスに指示を出す。

 ロスはため息をつきながら、腰を曲げ、少年の顔を覗き込んだ。

「ああ、それはそうだが……しかしだなあ、少年。その話は本当かい? 見間違えや勘違いってことはないだろうな?」

「本当です、間違いなく」

「ふーん、そうかい。で、どこのだれが魔術師になったっていうんだい?」

「……ぼくです」

「は?」

 あっけにとられるロスをよそに、少年は自分の上着の袖をまくり始めた。

 あらわになった貧弱な腕。その不安になる細さは貧困を物語っていた。少年は一種の物悲しげな視線で自らの腕を眺め──そして眼輪筋に力を込めた。

 途端、緑色の燐光が発せられる──少年の腕の皮膚の下で、なにか塊がのたうち回る──変化は急激に起きた。突如として生え始めた鋭い毛皮によって少年の腕は覆われていき、その骨格と筋肉も歪められていく。

 少年の右腕は、獣の前肢へと変化していた。

 その現象は、肉体変化の魔術に他ならなかった。

「いやあ、驚いたなあ」とロスは呆けたような声を上げる。魔術が起こった少年の腕と少年の顔をしげしげと眺める。「まさか、逃げも隠れもせずに自ら出頭してくるなんてな。こんなの初めてだ」

「……決まりは守れ、って死んだ母さんが言っていたんです」

「ふうん、なるほどね。立派なおっかさんじゃないか! ……それに立派な息子だな。なあ、少年」

 ロスはしゃがみこんで、少年の両肩にそれぞれ手を置いた。目の高さを合わせてじっと見つめる。

「俺はお前が気に入ったよ。おまえさんはまだ子供なのに正しい行いを知っている。……審問局には、俺の方からもちゃんと言っておいてやるよ。睾丸を抜く処置のときにはちゃんとしっかり麻酔を効かせてやるようにな」

 処置の話を聞いた少年の肩はびくりと大きく震えた。

「……」

 少年はうつむいてしまう。こぶしを握り込み、肩を震わせる。

 ──その瞬間、ブレイクスリーには、目の前の少年の心境が手に取るように分かった。精神感応魔術の類ではない。ブレイクスリー自身の胸の内に封印されていた、かつて彼自身が抱いていた感情だった。

 恐怖。果てしのない恐怖。全てが不可逆的であり、もう二度と元に戻ることができない。

 恐怖が精神を蝕み、無力感が身体を縛り付けている。

 心臓が脈打つのが感じられた。呼吸が浅くなり、息をするほどに苦しかった。

 どうにかしなければいけない、とブレイクスリーは思った。──どうにかしなければいけない、とはどういう意味だ? 彼の頭の冷静な部分が即座に自問する。それは大それたことだ。あってはならないことだ。前例のないことだ──。

 それでも、腹の底にはその前例のない確信が形成されつつあった。

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