審問官ブレイクスリーはカルドレイン王国を出奔し、オルゴニア皇帝の庇護を求めて北へと逃亡する。5


 カルドレイン王国は大陸の南に位置している。歴史のある王権と温暖な気候、なだらかな丘陵といくつもの大都市を擁する大国である。

 審問官は、その広大な領土と多大な人口を監視する立場にある──が、実際的には彼らの能力にも限界がある。とくにここ数世紀、各領地における都市化の傾向は著しかった。

 審問官たちは、都市部において効率的に捜査をするため、よく情報提供者を利用している。

 ブレイクスリーとロスは、とある橋の下へとおもむいた。──路地裏や橋の下、それに下水道。審問官はこのような暗部をよく利用する。暗くて、湿気ていて、悪臭のする所。人目につかず、まともな人間ならば近づこうとしない所。

 やがて一人の男が近づいてくる。その陰気な足音を耳にするだけで、その男がどのようなにやけ面をしているのか、ブレイクスリーは簡単に思い起こせた。

「お早いことですね、ブレイクスリーの旦那。それにロスの旦那」

 頭の中に思い描いていた通りのにやけ面が、口角をさらに歪ませた。落ちくぼんだ目がぎょろりと動く。悪臭の染みついた粗末な衣服といじけた体格。

「もう知っていると思うが、たしかにあの繊維問屋の倅は魔術師だったよ」とブレイクスリー。「あんたの情報が正しかったのは、珍しいな。てっきり、また営業妨害を目的にした虚偽の密告だと思っていたが」と懐から小さな布袋をとりだした。「忘れてしまう前に、こいつを渡してやる」

「珍しいなんてよしてくださいよ!」と男は声を上げながら、差しだされたものを受け取った。「あたしはこの街の同業者の中じゃあ、いちばんの勤勉者なんですから。そいでも、あたらしらカタギにとっては、正体を隠そうとする魔術師を探し出すのはむつかしいもんなんです。さすがのあたしでも、毎回毎回、ってわけにはいきませんよ。ご存じでしょうに……」

 情報提供者は目を細めながら袋の中身を確かめ終えた。

「はい、たしかにいただきましたよ。またごひいきにしてくださいよ旦那方」

 男は卑屈な礼を一つすると、去って行った。

 情報提供者の姿が見えなくなる。

「……ふん!」と、それまでむっつりと黙り込んでいたロスは不服そうに鼻を鳴らす。「しかし、ブレイクスリー先輩。どうしてあんな薄汚ねえやつに、俺たちの取り分から分け前を捻出してやらにゃいかんのですか。身体を張って魔術師を捕らえたのはこっちでしょうに」

「この街のような大都市で、一人一人に対して審問の魔術をほどこしていくわけにもいくまい。……それに、さっきのあいつは、情報提供者としては比較的ましな部類だ。俺が生まれるよりも前からあの仕事をしているというからな。物事の熟練には、相応の敬意を払うべきだ」

「ふうん……じゃあ、もしかして」と、ロスは退屈から一転、意地の悪い笑みを浮かべた。「ブレイクスリー先輩、あんたが魔術師になったとき審問局にチンコロしたのもさっきのあいつかもしれませんね。いまでこそあんたに対してへりくだった風をしておきながら、内心では舌をだしているのかもしれない」

「さてね」と、ブレイクスリーはにべもない。

 たしかに、担当の地区や時期を考慮すれば、ロスの指摘は妥当なものである。ブレイクスリー自身もその可能性について考えたことはある。──しかし、仮にそうだったとして、いまさらどうしようもないじゃないか。全てはもう過去の話だ。取り返しはつかない。

「それにですよ、ブレイクスリー先輩? まさかとは思いますが……」

 途端に、ロスの声色から冗談の色がなくなった。彼は心の奥底から出るような、冷たい声を発する。

「俺が魔術師になったときに密告したのは、さっきのあいつじゃないでしょうね」

 ブレイクスリーはロスの顔を見た。仮面越しの鋭い眼光。

 嫌な目だ、とブレイクスリーは思った。この審問官の後輩は、しばしばこのような目をする。攻撃的で、敵意を隠そうとしない目。抜け目のない中型の捕食動物の目。これがこの男の本質的な部分なのかもしれない。

「さあね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「ブレイクスリー先輩、あんたなら知っているはずだがね。ほかでもない、あんたなら」

「そういうことは詮索するべきじゃないと前にも言っただろう。狭い業界だ、お互いのためにならん」

「……」

 ロスは不信感に満ちた沈黙で答えた。それは不安定で、臨界間近の沈黙であることがブレイクスリーには感ぜられた。辛うじて表面上は平静を保っているが、いつ、なんの拍子にそれが弾け飛ぶか、予想もつかない。ロスの視線の鋭さは少しも緩められない。

 愚かな男だ、とブレイクスリーは思った。

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