第8話 新たな伝説、昔ながらの結末

 王子と令嬢の距離が少し近づいた夜、エルグランドにとっても重大な一歩が果たされた夜が明けたとき、二人はけたたましいカエルの鳴き声で目を覚ました。

 辺境だからといって夜明けの知らせがカエルの鳴き声であるはずはなく、異変を感じた供の兵士たちが二人の部屋をノックする頃には、二人はもう身支度を整えて待っていた。

「殿下、エリザ嬢! 外に異様な大きさのカエルがいます!」

「もう来たか」

 ミカエルはため息をついて、早朝にエリザを王都に帰す策が消えたことを残念がった。いくらトマトの聖女ならぬエリザに引き寄せられて来ることを予想していたとはいえ、さすが相手はお化けガエル、順番待ちも遠慮もしてくれないらしい。

「トマトを携えて私が参りましょう」

「待てエリザ。言うとは思っていたが」

 出勤のように出陣しようとしたエリザを止めつつ、ミカエルはそんな部下を誰より理解している上司としてさらっと打ち返した。

「昔から、有事のときに一騎打ちするのは王の子の役目なんだ」

「殿下、恐れながら時代は変わりました。今は私たち仕官武官がたくさんいます」

「それはそうかもしれんが、今の時代、王子に生まれただけで好きな令嬢を選べるほど甘くもなくてな」

 ミカエルは本音をこぼしてしまってから、顔を引き締めて断言した。

「エリザ、君に命じる。聖なるトマトを選んでくれ。それを私がお化けガエルの口に投げ込む」

 こうして古くからの王子の使命と少しばかりの下心に後押しされて、ミカエルがお化けガエル退治に挑むこととなった。

 急ぎ兵士たちによって運び込まれたオーギュスト伯領の大量のトマトを前に、エリザはトマトの選定作業を行う。

「トマトの選定には自信を持っていますが、聖なるトマトはいかなる基準で選びましょうか……」

 筆頭仕官として数々の難題に挑んできたエリザでも、建国のときの聖なるトマトを文献から辿ることはできていなかった。文献では「果物」とだけ記載されていたので、本当にトマトかどうかもまだ確証はない。

 ただ酸を吐くカエルがいては兵士たちを危険にさらすことになり、しびれを切らしてカエルがここを離れたらカエル事変はいつまでも終わらない。時間は少なく、エリザの肩に乗せられた責任も重く、エリザはトマトを前に固い顔で沈黙していた。

「どちらかだと思うんだ」

 ふとミカエルが隣に立って、気楽な調子でエリザに話しかけた。

「一番まずいトマトか、一番おいしいトマトか。誰でもトマトを選ぶ基準はそうなんじゃないか?」

 エリザはぱっと顔を上げたが、まだ不安を浮かべた目でミカエルを見た。ミカエルはその不安ごと受け止めて言う。

「エリザがいいと思うトマトでいい。伝説のとおりにいかなくてもいい。今は仕官文官がたくさんいるように、君一人で立ち向かわなくていい」

 朗らかに笑ったミカエルに、エリザはようやく肩の力を抜くことができた。何でも一人でやらなくていい。ミカエラ女王の言葉と、ミカエルの声が重なって聞こえた。

 エリザはうなずいて心を決めると、一つのトマトを選んだ。美味しそうに赤く熟れたトマトをミカエルに手渡すと、彼はそうだろうなというように笑った。

 ミカエルは兵士たちを伴って門に向かう。合図と共に門は開かれ、果たしてお化けガエルがその姿を現した。

 エリザは犬ほどの大きさと思っていたが、今は鹿ほどの大きさに膨れていた。いかにも毒々しいまだら模様の体躯、赤く血走った目が見る者を恐れさせて、兵士たちも一目見て息を呑んだ。

 ミカエルは敬意を払うように一礼した。災いの神は時々形を変えて世に現れるという。古い伝説の中に登場する守護天使ミカエルも、神が形を変えるものに槍を向けるときは敬意を払うべしと言っていた。

 ただ今向き合うカエルの腹部の大量の卵が世に放たれたとき、カエル事変はさらに災いをもたらすと伝えていた。反射的に兵士たちが後ずさって槍を構えたとき、ミカエルは一人軽装で走った。

「殿下!」

 女王ガエルはしゃがれた鳴き声を上げるなり、先頭にいたミカエルに襲い掛かった。女王ガエルの濁った目とミカエルの青い瞳が合う。

 城壁の中から出してもらえなかったエリザも、思わず震えて目を閉じかけたときだった。

「……神よ、受け取ってください。これが一番おいしいトマトです」

 女王ガエルが真っ赤な口を開いた瞬間に、ミカエルはそれより赤いトマトをそこに投げ込んだ。

 発光と発酵が同時に起こったように、女王ガエルは光の中でうごめいた。悲鳴というよりは低くうなるような声を上げて、じろりとミカエルを見た気がした。

 ぽん、ぽんと女王ガエルは弾んで、地に着くたびにその体は小さくなり、やがて普通のカエルの大きさに戻っていた。

 平和に終わった一日の終わりのような鳴き声を響かせて、カエルはけろりと畑に帰っていった。




 新たな伝説となったカエル事変の終息後の秋の頃、ミカエルとエリザはまだ婚約発表ができていなかった。

「入っていいか?」

 夕刻、ミカエルがエリザの部屋を訪ねたとき、中で迷うような気配はしたものの、一応返事をもらって中に立ち入った。

「……いいですよ、笑ってくださって。着たことがないんです」

 ミカエルが目をまたたかせた先には、青いシフォンドレスに身を包んだエリザの姿があった。

 女性物の仕官服も出来た時代、筆頭仕官になった今も、エリザはまだ一番基本の地味な男性仕官服しか着たことがなかった。それはそれでそそるという密かな男性ファンの声を、ミカエルは聞かない振りをしながら苛立たしく耳にしていた。

「い、いや。似合う。いいからこっちに来てくれ」

 けれどエリザのちょっと恥ずかしそうな表情と、案外女性らしい体の線と、レースとリボンが一緒になると……ミカエルはどうして今までこれを着せてみなかったのかと、不審な仕草で目を逸らしながら思った。

「似合わないですよ。こんな格好で夜会なんて」

 今夜、初めて夜会にエリザを連れて行って婚約発表をしようと思っていたミカエルは、むずかゆそうなエリザの声に我に返る。

 早く公に二人の仲を認めさせたいと思っているが、別に周りで二人の仲に反対している者はいない。父も兄も仕官たちもなぜまだ結ばれていないのか不思議がっているくらいで、各地の熱狂的なエリザファンはこの際放っておけばいいだろう。

 ただ一つ、エリザが受け入れてくれるかだけが、ミカエルの踏み込めない理由だった。けれどそれを乗り越える方法を、そろそろ二人は知り始めている。

「できるさ」

 ミカエルはエリザの背に腕を回して、安心させるように腕の中に納めた。

「一緒に夜会に行ったり、二人でおいしいものでも食べたりしよう。トマトも忘れずに」

 エリザがこっそり調べていた本をミカエルは彼女の友人に教えてもらった。婚約破棄、それは早足でゴールに向かったミカエルへの抵抗だと、今は理解している。

「……トマトとカエルの相性がいいのは証明されたしな」

 昔からの物語のようにキスを交わした二人は、今日も少しずつハッピーエンドに近づいている。

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