第7話 聖なるトマト、王たるカエル

 落ちてしまった意識の中で、エリザは一年前の夢を見ていた。

 窓の外はからりと晴れてバカンス日和で、寝台に横たわる女王ミカエラがまもなく息を引き取ると聞かされていなければ、みんなこぞって出かけるような夏の日だった。

「言い残すことが思い浮かばないなぁ」

 エルグランドの王妃であり共同統治者であったミカエラは、その在位の間そうであったようにおおらかに、楽観的に笑った。

「エリザみたいな優秀な子をいっぱい登用しておいたし、たぶんエルグランドは大丈夫だろ」

「陛下……そんな。陛下のお導きがないのに、これから私はどうしたら」

 むしろ何日も眠らず寝台の横で看病していたエリザの方が、今にも倒れそうだった。

 エリザにとって女王ミカエラから受けた恩は計り知れない。エリザの実家を行幸した際、「いいね! 君、王都に来ちゃいな」と軽やかに誘ってくれたミカエラがいなければ、エリザは辺境でトマトの栽培をして一生を終えていたはずだった。

 ミカエラは青ざめたエリザの頬を我が子にするようになでて、そうだなぁと思案すると、傍らに立つ息子ミカエルをちらと見た。

「エリザ、何でも一人でやらなくて大丈夫。第一それじゃモテないね。……いやモテるのはどっちでもいいけどね」

 息子が恨めしそうな目をしたのに気づいて、女王は途中でもやっと言葉を濁した。

 女王は目を閉じると、楽しみにしている夢を見るように表情を和らげた。

「ああ。あっちでも、トマトに囲まれてエリザが手を振ってる……」

 果たして女王は息を引き取り、エリザは涙と共に女王を見送った。

 頬を拭われる感覚で目を覚ますと、枕元にミカエルが座って彼女を見下ろしていた。窓の外はすでに日が落ちて暑さも静まり、過ぎた時を知らせる。

 ミカエルは目覚めたエリザに気づいて、自分が怪我を負ったように眉を寄せて問いかけた。

「お化けガエルの酸を大量に被ったんだ。痛むか?」

 エリザはシーツの下の自分の体が裸であることに気づいて慌てたが、身じろぎすると突っ張るような感覚がして喉の奥に悲鳴を飲み込んだ。

「い、痛みは大して」

「無理をするな。子どもが少し足の先に被っただけでも、意識を失うくらいの痛みだと聞くぞ」

 それを大量に被ったというのだから、今自分の体はどんな酷い状態になっているのだろうとエリザは心配になった。

 ところがそろそろとシーツの下を確かめると、腹部に跡はあったものの、それは酸を被ったような傷には見えなかった。エリザは首を傾げて言う。

「もうカサブタになって治りかけているようです」

「それは私も見た」

 つまりは裸を見られたということで、エリザは恥ずかしがるところなのか迷ったが、ミカエルが切り出した話に意識を持っていかれた。

「建国の頃にもお化けガエルが現れたというが、そのときどうやって退治したかは知っているか?」

「もちろんです」

 エリザは歴史科目には自信を持っているが、それとは別にカエル事変の担当者として当然その事例は調べていた。

「伝説の聖女がお化けガエルをおびき寄せ、王が聖女にもらった果物をお化けガエルの口に放り込んだ。するとたちまち普通のカエルに戻ったという」

「そうだ。どうやら君はその聖女の生まれ変わりらしい」

「……えっ!」

 エリザが息を呑むと、ミカエルは難しい顔で続けた。

「お化けガエルは警戒心が強いのに、今日はまっすぐ君に向かって襲い掛かってきた。しかも酸を被ったのに君の体はあっという間に治りつつある。おそらくお化けガエルが弱点としているのは……」

 ミカエルが言わんとしていることを察して、エリザは一息だけ黙った。いやまさかと疑ってみようとしたが、疑う余地はかけらもなかった。

「トマトですね」

「トマトしかない」

 エリザの体は必ず一日一個トマトを摂取し、血肉の中にトマトが生きている。それがお化けガエルをおびき寄せたに違いなかった。

「それなら話は早い。今夜にでも、もう一度私がお化けガエルをおびき寄せて……」

「だめだ。君はすぐに王都に帰るんだ」

 嬉々として起き上がろうとしたエリザに、ミカエルは厳しく言い放った。

「殿下」

「……だめだ」

 エリザがいつものように進言を口にしようとして、きつく抱きすくめられる。

「君が泣いたり痛い思いをするくらいなら、私だけ残ってカエル退治をする。頼む、エリザ」

 体を通して聞いた声が震えていて、エリザは少しの間一年前に帰っていた。

 女王が亡くなったとき、エリザは酷く泣いた。ミカエルは泣かなかったが、泣いているエリザを腕に抱いて震える声で言った。

 泣かないでくれ。自分の悲しみを飲み込むのは慣れている。でもエリザが泣いていたら、どうにも泣きたくなるんだ。そう言って、いつまでも背を撫でていた。

 そのときエリザは、この人は確かに王の子だと思った。けれどそれだけでもなく、誰かに特別に思いをかけてしまう一人の男の人だ。……自分がこの人の特別でいいと自信を持てないから、その気持ちを受け取ることがまだできないけれど。

「エリザ?」

 今だって自信なんてないけれど、その気持ちがうれしいと伝えるだけなら、できるよね。自分にたずねると照れくさそうな感情が返ってきて、エリザはミカエルの頬を両手で包んでいた。

 そっと唇を合わせたけれど、慣れないものだからちょっと鼻が当たってしまって恥ずかしかった。勉強みたいに一人で覚えられないものだから上手くなれないんだなんて、自己嫌悪になりながら顔を離す。

「やったな、エリザ」

 ミカエルは笑って、やり返すみたいにエリザを引き寄せて唇を重ねる。

 慌てたエリザの言葉は、十年の思いがあふれ出したミカエルには聞き入れられなかった。

 夏の宵、灯りが吹き消された後の小さな部屋で、エルグランドの未来が少し動いたことはまだ誰も知らないのだった。

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