第2話過去との対峙

通常、9回からの登板の抑えの切り札である。丹波栄二郎の登板に球場内はにわかにざわついたが、それに動揺することなく、丹波さんは一歩、一歩、地面を踏みしめるようにゆっくりとマウンドに向かってきた。

「大丈夫だ。ハル」

丹波さんは、八失点という不甲斐ない成績に気落ちしていた春樹の肩を叩いて、労をねぎらうように言った。

凛とした姿勢で、泰然自若とした丹波さんは、投球練習を断り、ランナーを気にしながらセットポジションに入った。

丹波さんは、その後、飄々と投げ抜き、ノーアウト満塁の危機を三者三振で乗り切った。

まさに鬼神の如く、圧巻のマウンドさばきに場内からは溜息がもれた。


ふいに運転席から背中を叩かれて、春樹は目を覚ました。

「あ……夢か……」

春樹は、身を起こすと、車内はエアコンが効いているにも関わらず、背中のシャツがピタッと吸い付くように、じっとりと汗をかいていた。

「夢って、どんな夢見てたんだよ? めちゃうなされてたぞ」

河野は後部座席で目をこする春樹を不安気に見つめて声をかけた。

春樹は身を起こし、尻ポケットからハンカチを取り出して、額の汗を拭った。

助手席の斎藤は、気にすることもなくスマホで一生懸命にゲームをしていた。

ターゲットがいつ何時、姿をあらわすか知れないのに、緊迫感も何も感じられなかった。

斎藤自身もこの仕事は腰かけ程度だと、周りに吹聴していたが、単に正社員の誘いが無い事への不満だろうと百々は言っていた。

「今日は空振りだな」

河野は朝焼けを見ながらつぶやいた。

某アイドルの自宅の周辺に駐車していたが、周りの住民が、違法駐車しているデリカを指さしてひそひそと話をしているのが見えた。

「頃合いだな。撤収しよう」

河野は周囲の視線から逃げるように乱暴にクルマを発進させた。

斎藤は、助手席にもたれてスポーツ紙を広げた。

当時、バッテリーを組んでいた島本和也の記事が一面を飾っていた。

「島本、昨日も打ったのかよ」

運転席から横目で斎藤の広げるスポーツ紙を眺めて、河野が声をかけた。

「これで32本目ですね」

「まだシーズン半分ちょいだぜ。60本ペースかよ」

河野は驚嘆して肩をすくめた。

「俺、ロッキーズ嫌いなんすよ」

斎藤は吐き捨てるようにつぶやいた。

島本は高校卒業後、ドラフト外ではあるが、地元愛知県のナゴヤドームを本拠地としているルネサンス・ロッキーズに入団し、主砲として活躍をしていた。

「確か、今年でFA権取得するんだろ? メジャー行くんじゃねえか?」

河野は興味津々で、斎藤にたずねた。

「契約金とか、半端なさそうっすね」

斎藤は恨めしそうにぼやいた。

「しかし、捕手でメジャーでやっていくってのは、どうなんかねえ?大変だろう?なあ、春樹」

春樹は河野から急に話を振られてドキリとしたが、「はあ」と曖昧に返事をした。

「あ~あ、片やメジャーリーグに行って、大金を稼いでこようとしてるのに、俺らときたら、こんな芸能ネタばっかり追いかけて恨まれるような仕事ばっかで……」

斎藤は、スポーツ紙を丸めて、後部座席に投げ捨てた。

「ホント、不公平っすよね」

斎藤のぼやき節に、春樹は思わず苦笑した。

「伏見さんは、この仕事辞めようとか思ったことあります?」

斎藤の急な問いかけに、春樹は我知らずたじろいだ。

「程度の差こそあれ、辞めようと思わない日はないよ」

春樹は過去に、通り魔事件の加害者家族への取材で、玄関に出てきた父親から罵倒され、手にしていたアイアンで危うく殴られそうになり、転げまわるように必死に逃げ回ったことがあった。

それ以来、春樹は自筆で書いた辞表を常に胸ポケットに忍ばせていた。

「そっすよね~。俺も早く辞めて良い仕事見つけなきゃ」

斎藤は両手を組んで、後部座席にもたれた。

良い仕事って何だろう?春樹はふと考えた。

人のうわさ話は野次馬的には面白いかも知れないが、とても胸を張って良い仕事をしているなどとは言えない。

ここ2~3年ほど、ずっと芸能ネタを追いかけている。

それも不倫ネタばかりで、「ウェンズデー」はマスコミやSNSから格好の的となりひたすらに叩かれていた。

しかし芸能ネタは部数が伸びる。出版不況と言われて久しい昨今、政治や事件ネタなんかよりもユーザーは身近な芸能ネタを待ち望んでいた。

このようなアイドルや芸人、タレントを追いかけまわす仕事は、いつ何時にシャッターチャンスが訪れるか分からず、タイトなスケジュールゆえに部署の皆の気持ちは疲弊しきっていた。

入社当初は、春樹も皇居の周りをランニングしたりしていたが、いつ呼び出されるか分からないヘビーローテーションの中で、いつのまにか缶ビール片手に家でぐったりするだけの日々が続いた。

辞めたい辞めたいと心の中でずっとつぶやきながら早6年になる。

我ながら自分の身体のタフさには舌を巻いていた。

こんな不規則な生活を続けていて、また胃に穴の開くようなことにならなければよいのだが……

そんな心配をしながら、デリカは昼近くになり、ようやく本社に戻ってきた。

編集部の閑散とした室内に入ると、キャップの百々がスポーツ紙とにらめっこしていた。

「おう、おつかれさん」

百々は春樹の顔を見るなりそう言って、新聞を広げたまま顎で編集長のデスクを指した。

そういえば編集長が呼んでいたと言っていたなと春樹は思い出し、そのまま編集長のデスクへと歩いていくと、春樹の存在に気づいた編集長の矢崎 弘明(51)が片手を上げた。

「おう、ごくろうさん」

「おつかれさまです」

春樹は、何かミスでもしたのかと戦々恐々な表情で、矢崎の向かいに立ち尽くした。

「ハル、お前な、次週からこの企画の担当しろ」

矢崎は、春樹の目の前で、机の上に乱暴にゲラを置いた。

それを見た瞬間に、春樹の心臓は跳ね上がった。

<桶狭間高校の悲運の投手、丹波栄二郎の謎の死の真相に迫る>

久しく目にしたその名前に、春樹の全身は総毛立った。

忘れようにも忘れられない、春樹にとって憧れのエースであり、伝説の名投手 丹波栄二郎、まさかその名をこの会社でこういったカタチでもう一度知ることになるとは思いもしなかった。

すっかり動揺した春樹は、手に持っていたコーヒーを思わず床に落とした。

「バカ野郎!企画書が濡れるだろ!」

矢崎の怒号が、編集部内に響き渡る。

「す、すみません」

春樹は慌ててコーヒーの入った紙コップを持ち上げた。

事務員の小松 香(24)が慌てて雑巾で床を拭いた。

春樹は小松に謝罪し、終始落ち着かないようすで、狼狽しながら企画書を眺めた。

「お前、高校時代、丹波と一緒の野球部だったらしいな」

矢崎は、ドスの利いた声で、春樹に問いかけた。

春樹は返事をすることも忘れて、まるで意識がどこかに飛んでしまったかのようにただ企画書を茫然と眺めていた。

矢崎は無遠慮に、胸ポケットからマルボロメンソールを取り出して、火をつけ、気持ち良さそうに吹かした。

普段は禁煙であるはずの編集部も、黄金時代を築いた名物編集長のこの人にかかると関係なく、誰も注意できない。

「4週間連続で、この記事に取り組んでいく……」

矢崎はそう言うと、百々の座る席に視線を置いた。

「おい、ヒデ、お前もハルと一緒に、当時の丹波を知る者に取材に当たれ」

キャップの百々を「ヒデ」と呼べるのは編集長の矢崎だけであった。

「相手が呆れようが、うんざりしようが、罵声を浴びせてこようが、食らいついてこい。ありとあらゆる手段で、てめえのコネを使ってでも、徹底的に調べてこい」

矢崎は、春樹の隣にやってきた百々にも声をかけた。

「ヒデ、お前出来る限りでいいからハルのフォローせえよ」

百々は黙ってうなずいた。

編集長の前では、百戦錬磨の百々も、さすがに形無しであった。

「編集長……これは、誰のリークですか?」

春樹は恐る恐る目の前でふんぞり返る矢崎に質問した。

矢崎はギロリと春樹と視線を合わせた。

漆黒の瞳には、すべてを見透かされているような冷ややかさを感じ、思わず春樹は目線をそらしてしまった。

「何だお前、そんなこと知ってどうする?」

「いや……」

春樹は自分でも忘れようとしていた過去の再燃にひどく混乱していた。

春樹はひときわ深く深呼吸をして、矢崎に視線を戻した。

「お前がとびきりの情報を得たなら、誰のリークであるか教えてやるよ」

矢崎は短くなったタバコを灰皿に押し付けた。

「もういいか?」

春樹は直球の問いかけに対して、とっさの返答をしあぐねた。

「ほら、ハル行くぞ」

後方から百々に声をかけられるまで、春樹は呆然と突っ立っていた。

矢崎は終始、無表情のままであった。

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薄氷のマウンド バンビ @bigban715

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