薄氷のマウンド

バンビ

第1話伝説の投手

野手九人のうち、たった一人だけが与えられる特権 小高い丘のマウンドの上でプレーするエース

背番号一番を背負う丹波栄二郎たんばえいじろうさんは、マウンドに向かうまでの隔たりは、さながら薄氷を張っている氷原の上を歩いているようで、一歩一歩が、パキンパキンと氷のヒビが入ったような音を感じさせるような余韻を残して、ゆっくりと力強く聖地へと向かってゆくその姿は、バイタリティに溢れたアキレウスのようで、静寂な暗闇の中を空間で爆発する光のオーロラのように神々しかった。

絶対的で崇高な存在感である丹波さんが登板するだけで、にわかに周りまで活気づいた。

ロージンバッグをはたいて、指先にふっと息を吹きかけるたたずまいが、なお彼をマウンド映えさせていた。

もともと「一」という数字は、始まりを意味し、縁起の良いエースナンバーである。

プロでは「一八」をエースナンバーとしているが、やはり丹波さんには真のエースナンバー「一」が映える。

丹波さんが登板しての相手チームの青ざめた表情を見ると、本当に気の毒に思うし、つくづく同じ高校であったことを本当に良かったと実感させてくれる。

我ら県立桶狭間高校は、高校地区大会最も困難といわれる愛知県大会を制して、期待を一心に背負い、甲子園に出場する予定であった。

あの事件が起こるまでは……


「おい、春樹、ターゲットが出てきたぞ」

運転席に座る河野こうの ゆたか(32)が後部座席で姿を隠しながら菓子パンを頬張る伏見春樹ふしみはるきに声をかけてきた。

春樹は慌てて菓子パンを飲み込み、一眼レフを片手にクルマの窓越しに撮影をした。

周りを伺う初老の男とサングラスの若い女の姿をファインダー越しにとらえていた。

「いくぞ!」

河野の合図と共に、クルマのドアを開けて、ホテルの入り口へと駆け出す。

まるで警察の捕り物のような形で、河野と春樹の二人はホテルから出てきたばかりの男女二人を取り囲んだ。

サングラスをかけていた女は慌てて逃げ出そうとしたが、そこに河野が回りこみ、逃げ道をふさいだ。

カシャッ カシャッ カシャッ

ホテル街の静寂な暗闇の中、シャッター音だけが鳴り響く。

片手で顔を覆い隠す初老の男を、春樹は容赦なくカメラで撮り続けた。

大手レコード会社の敏腕プロデューサーと、その奥さんを世話する看護師の二人の不倫現場に虚しいシャッター音だけが響いた。

「押さえたな」

河野は春樹に伺うと、自身の名刺を初老の男に差し出し、丁寧に事の経緯を説明した。男は苦渋に満ちた表情で名刺を見つめていた。

春樹は何度経験しても、この場面だけは受け入れがたいものがあった。

仕事とはいえ、自身のしていることには胸が張り裂けそうになり、哀れみすらも感じてしまう。

敏腕プロデューサーであった彼の生み出した音楽は、春樹自身も学生時代によく好んで聴いていた。

その才能を自分は今、潰そうとしているのだと春樹は思った。

他人の浮気や不倫を食い物にするような職に自分はついている。

春樹はそんな自分を鼓舞するためにあえて肩を回して、声を出した。

銀行員だが、物書きに憧れていた春樹の父親は、談合社の内定をこれ以上ないくらいに心から喜んだ。

小説好きな父は、親族皆に自慢した。

「これからは、談合社の小説は、うちの息子が編集するんや」

と法事や何やらで大見得を切っていた。

だからこそ、後に、写真週刊誌部門に配属されたと知ったときの落胆振りは半端ではなく、父親は一気に老け込んだ。

芸能ネタばかりを追いかけ、芸能人から煙たがられている悪評判の「ウェンズデー」にいることが、なおも拍車をかけ、春樹は実家から勘当同然に追い出された。

望遠レンズをバッグにしまい込みながら、春樹は溜息をついた。

「罰当たりな仕事ばして」

福岡の実家に久しぶりに電話してみると、開口一番に嫌味を言われて、逃げるように春樹は電話を切った。

皮肉なことに写真を撮る腕前だけは上がっていった。

本来ならば、このカメラでスポーツ選手の決定的な瞬間を撮りたかった。

希望部署に異動届を出したい気持ちは今も変わらない。

さすがに野球は、まったく見なくなったが、それでもニュースで結果はチェックしていた。

当時、同じ高校でバッテリーを組んでいた同期の島本和也(28)が活躍するニュースを見ていると嬉しくもあるが、切なくもなる。

昔の戦友が第一線で頑張っているというのに、自分は芸能人の不貞行為を暴くために常にアンテナを張り巡らせていること自体に心底うんざりしてしまう。

元高校球児で、大学時代も野球部を経験した春樹は新卒で談合社に入社した際、希望部署のスポーツ誌「ゼロ」への配属を希望としていたが、あいにく自分が一番行きたくなかった写真週刊誌部門に配属が決まり、肩を落とした。

春樹の前後に配属された社員は、そのほとんどが精神的かつ肉体的な激務に耐えられず、ある者は部署替えを直接上司に直訴し、またある者は黙って会社を去って行った。

その中でも春樹は意地を見せ、入社から今日までの六年間、部署異勤願いを一度も出すことなく頑張っていたのは、チーム直属の上司 百々英孝どどひでたか(46)の説得があったからだ。

「ハル、お前、この仕事に対して嫌気がさすのも分かるが、もう少し頑張ってみろや。希望の職じゃねえことは百も承知だけどよ。この仕事はお前に向いている」

とにかく春樹は「張り込み」にしても「追っかけ」にしても、今まで諦めたことなど聞いたことないほどにタフで、クルマの中でトイレを我慢しすぎて膀胱炎になったこともあった。

取材対象を落とすときも、どんなに罵られて、泣かれようがびくともしない図太さも持ち合わせていた。

春樹自身が、高校卒業と同時に人の心というものをぽっかり亡くしたような感じであった。

「お世辞じゃなくてさ、お前、才能あるよ。この仕事に向いている」

百々は春樹と二人きりの閑散としている編集部の喫煙所でそう言い放った。

お世辞だろうが本音だろうが、他人の秘密を暴くために、必死に闇討ちや朝駆けを繰り返す毎日に限界がきていたが、この仕事をしているときだけは、苦い過去から解放された気分だった。

春樹のチームのキャップである百々は、見た目の巨漢もさることながら、刈り上げた短髪と、過去のラグビー時代の置き土産のような潰れた耳とまぶたの上の傷、散々会社に泊まり込んでの無精ひげで、ヤクザと間違えられてもおかしくない風体で、取材対象に対して、執拗でかつ粘着質、どれだけ揺さぶられようとも牙を外さない「マムシの百々」と周りから密かに呼ばれていた。

居丈高で、剛毅、雄大でよどみない洒脱な人柄、口は悪いが洞察力と決断力は長けていて、大事な局面の判断力は、他のベテランよりも遥かに抜きんでていた。

バツイチで、高校生の娘さん二人の親権は、元奥さんにあるらしく、スマホの待ち受け画像は、二人の娘さんと自分が映っている写真にしているのを、春樹は横目で見たことがあった。

「おい、ハル、お前例のアイドルと芸人の不倫追っかけてるんだろう?」

百々は編集部で望遠レンズの画像チェックをしていた春樹に声をかけた。

「はあ……」

春樹は百々に気のない返事を返して、再度画像を確かめた。

校了明けの翌日の会議の後で、次の取材の決まったトピックが、先ほど百々が言っていた某アイドルグループのセンターの女の子と人気芸人の不倫ネタであった。

「今日の取材が終わったら、編集長のところに顔だせや。なんか話があるらしいわ」

「てか俺、たぶん今日も徹夜っすよ」

「んなこたあ百も承知だ。編集長の話の内容は俺も把握しとらんが、別に寝ながら聞いてたって問題ないようなたわいもない話だろう」

百々はまるで自分と関係ない他人事のようにゲラゲラ笑いながら戦場へ向かう春樹を見送った。

「春樹、お前どのくらい寝ていない?」

社用車である年代物のデリカの後部座席に乗り込んだ春樹に、運転席から河野が声をかけてきた。

「今で二十九時間っす」

「そうか、俺は三十二時間」

こうして睡眠時間の少ないことを競い合うのも、ウェンズデー班特有の一連の行事でもあった。

目下売れ筋のアイドルグループのセンターのスキャンダル疑惑の張り込みは、あまりにガードが固く、動きのない毎日に、身体全体がなまりのように重かった。

「少し横になって寝ておけよ。今日の見張りは英男に任せるわ」

助手席に座る談合社の契約社員である斉藤 英男(39)は渋い表情を浮かべていたが、春樹や河野の憔悴しきった顔を見ると、嫌ということもできず、神妙にうなづいていた。

春樹は河野の好意に甘えて、ごろんと後部座席に横になり目を閉じた。

まどろみの中、春樹は束の間、夢を見ていた。

シニアリーグで活躍していた春樹には、色んな強豪高校から推薦の話がきていた。

憧れのあの人の背中だけを追うために春樹は、全ての誘いを断って、愛知県の名もなき公立高校に入学した。

福岡から名古屋に住む叔父さんの家に居候し、自転車で片道一時間かけて通学した。

もう少しで念願の甲子園に手が届く県大会の準決勝で、マウンド上の春樹は、スコアボードを茫然と眺めていた。

〇対八と序盤で開いた八失点は全て自分の責任であった。

相手は優勝候補筆頭、愛知では私学四強に入り、かの有名なメジャーリーガーも所属していた「愛知大名電」である。

こめかみから冷や汗が滴り落ちた。

自分の不甲斐なさで、あの人を甲子園に連れて行けなかったなんて考えるのも嫌だった。

カキーンと金属音が鳴り響き、打球は右中間に運ばれていく。

春樹の心は容赦なく打ちこんでくる相手打線に、すでに戦意喪失していた。

伝令と共に、背番号一を背負ったあの人がマウンドに駆けつけて来た。

「すみません……」

帽子を取った春樹は消え入るような、か細い声で謝罪をした。

あの人は、黙って春樹の肩を叩き、労をねぎらってくれた。

その瞬間、春樹の瞳から大粒の涙が流れた。

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